過去の大発明は偶然?
イノベーションと商業化の大いなるジレンマ

 これをよく示しているのが過去の大発明です。たとえば、発明王トーマス・エジソンは蓄音機を発明するために48時間不眠不休でぶっ続けで働いていますが、蓄音機をどのような用途に役立てるか、明確にはイメージできていませんでした。

 何の役に立つのかよくわからない、と思いながら、48時間ぶっ続けで働けるというのも常人の理解を絶していますが、どうも発明というのは「そもそも」そういうものらしいのです。

 私たちは「使用目的」が想定された後に、発明という行為が行われる、と考えがちですが、過去の発明の多くは、当初の目的とは異なる領域で大きな経済価値を生んでいます。

 これらの事例は、よく言われる「用途を明確化しない限り、イノベーションは起こせない」ということが、間違いとは言わないものの、誤解を招きかねない主張であることを示唆しています。

 多くのイノベーションは、「結果的にイノベーションになった」に過ぎず、当初想定されていた通りのインパクトを社会にもたらしたケースはむしろ少数派なのです。

 では「何の役に立つのか」という点を明確にしないまま、興味の赴くままに野放図に開発をすればいいのかというと、それで成果が出るとも思えません。

 コンピューターの歴史について学んだことのある人であれば「用途市場を明確化せずに研究者の白昼夢に金をジャブジャブつぎ込み続けた結果、すごいアイデアがたくさん生まれたけれども一円も儲からなかった」という悪夢のような事例、ゼロックスのパロアルト研究所の話を聞いたことがあるでしょう。

 パロアルト研究所は、マウスやGUI、オブジェクト思考プログラミング言語といった、現在のコンピューターでは常識となっているさまざまなデバイスやアイデアを先駆的に開発したにもかかわらず、何一つそれらを商業化できず、挙句の果てにそれらの発明がもたらす果実をすべて他社に取られてしまいました。

 ここに、我々は非常に大きなジレンマを見出すことになります。つまり、用途市場を明確化しすぎると大きな価値創出の機会を逃すことになりかねない一方、用途市場を不明確にしたままでは開発は野放図になり商業化はおぼつかない、ということです。