バブル景気に出現した
“シェイクスピア劇場”はその後…
私事を加えながら、東京グローブ座の歴史を少しだけ顧みたい。
百人町で生まれ育った筆者にとって、1988年のパナソニック・グローブ座の誕生はセンセーショナルだった。
企業メセナの一環として造られた空間であり、“文化の風”を近隣住民の1人として誇らしく感じながらも、「なぜ、シェイクスピア?」という違和感もあった。
80年代後半から90年代は、韓流ブームが押し寄せる前で、新大久保界隈(百人町)に観光客の姿はなく、駅前商店街はのどかな雰囲気だった。そして、立ちんぼと呼ばれる外国人が路上で客引きする“夜の顔”を持つ街だった。
そんな土地に現れた円形劇場――。
当時、筆者は駅近くのファーストフード店でマネジャー仕事(店舗管理)に就いていたが、公演日は街のカラーに不釣り合いな客がカウンターで列を作った。その時間を「グローブ座ピーク」と呼び、接客サービスと調理オペレーションが慌ただしかったことを思い出す。
しかし、ほどなくしてバブルがはじけ、パナソニック・グローブ座の放つ“文化の風”はやみかけた。
主を失くしたバブル期の建物が老朽化し、市区町村を廃らせていくニュースをよく目にするが、図らずも、新大久保の街はそうならなかった。
建物に新たな空気を吹き込む救世主が現れたからだ。それが、ジャニー喜多川さん率いるジャニーズ事務所とそのタレントたちだった。
街の深化を見据えていたような
ジャニー喜多川さんの先見性
パナソニック・グローブ座の休館(運営母体の交替)が2002年、テレビドラマ「冬のソナタ」放送(2003年4月~)による韓流ブームの到来が2003年。
かねて新大久保は外国人居住者が多かったものの、“ヨン様”効果で観光の街と化し、現在では、国籍・性別・年齢を問わず人々が仕事を営み、通りを行き交う “ダイバーシティ・タウン”になった。
前稿「ジャニー喜多川さんの優れた『人材育成力』、V6を例に読み解く」で、ジャニーズ事務所のグループは、「さまざまな個性がそれぞれの能力の最高値を見せながら総体で輝く美しさを持つ」と書いた。それが、個人と集合体の理想形であり、ジャニー喜多川さんが多様性を重んじていたことは想像に難くない。