1910年から1911年初頭にかけて、チェルノヴィッツで『経済発展の理論』(※注1)を書き上げ、ライプチヒのドゥンカー&フンブロート社へ原稿を送った。この第2作がシュンペーターの名声を高め、今日まで影響を与えている歴史的な書物である。
シュンペーターは1911年の夏休みにウィーンへ帰京すると、ベーム=バヴェルクによって帝国の西部、グラーツ大学法―国家学部教授へ推挙される。本当は母校ウィーン大学経済学教授の座に就きたかったのだろうが、グラーツ大学は辺境のチェルノヴィッツ大学より格ははるかに上だ。それに、1888年から1892年まで母親とともに住んでいた町でもある。悪い気分ではあるまい。
ところが、シュンペーターを正教授として受け入れる側のグラーツ大学教授会の議論は紛糾し、いったん否決されてしまう。ロバート・ロアリング・アレン先生の評伝によると(※注2)、「夏の終わり、文部省はシュンペーターの正教授就任を決定できず、シュンペーターはチェルノヴィッツへ帰り、秋には冬学期が始まった」という。グラーツ大学教授の辞令が出たのは12月に入ってからで、12月7日にチェルノヴィッツからグラーツへ移動し、ただちに講義を始めたのだそうだ。
アレン先生は「アンファン・テリブル(早熟でおとなの意表をつく恐るべき子ども)シュンペーターの就任を嫌った」と推測している。チェルノヴィッツ大学で乗馬服を着たまま教授会に出席し、田舎町のレストランで正装して食事し、大学職員と学内で決闘し、しかし業績は抜群、という話はグラーツまで聞こえていたのかもしれない。平和な大学を横紙破りにかき乱されたくなかったのだろう。学問上は、歴史学派優勢の時代に、一般均衡論の解説書を出しているシュンペーターは異端だったところもある。
ついに代表作
『経済発展の理論』が完成!
グラーツ大学教授会で激論が始まった7月にシュンペーターは『経済発展の理論』の序文を書きあげ、本文の校正にとりかかっていた。そしてゲラを抱えてようやくグラーツ大学に着任したのが12月、講義が回数を重ねた1912年に入り、『経済発展の理論』は出版されたことになる。
『経済発展の理論』の原題は、Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung 、出版社はライプチヒの Duncker & Humblotで初版は1912年。初版は第7章まであったが、のちに第7章「国民経済の全体像」を削除し、改訂第2版を出版したのが1926年である。日本版は1937年7月に岩波書店から出版されているが、これは第2版を中山伊知郎、東畑精一が翻訳したものである。現在の岩波文庫版は1977年に塩野谷祐一、中山伊知郎、東畑精一によって改訳された版だ。以下の記述は、この岩波文庫版をもとにしている。
シュンペーターの論理はこうだ。前作『理論経済学の本質と主要内容』では、ワルラスの一般均衡理論を精査し、その特質を明らかにした上で静態学としての限界(当時の)を指摘し、シュンペーター自身は資本主義の運動法則を明らかにするため、動態学としての経済学を追求するとした。
シュンペーターは基本的に一般均衡理論によって市場の仕組みを理解しており、経済は放っておけば安定すると考えていたと思う。この静態的な世界に利子は存在せず、まったく静止していることになるという。
現実の資本主義は動態であり、ときに激しく動揺する。これはなぜか、そしてどのような仕組みで動くのか、という命題を設定する。その回答が『経済発展の理論』である。