「話し上手な人」を
過大評価する危うさ

 さて、昨今のオーラル重視文化の時代にあっては、(2)よりも(3)の人の方が格段に活躍の場が与えられているように見える。しかし、人間の成長を考えるならば、(2)の人を「話せるように教育する」のと、(3)の人に「書く能力を身につけさせる」のとではどちらが良いかというと、間違いなく前者だろう。

(3)の「話すのは上手だが書くのは下手」な人は、概念を幾重にも重ねて思考を紡ぐということができないまま、その場に適応するための「リアクション重視」で生きてきたのかもしれない。話し言葉では、その場の勢いなども手伝って、話を展開させたり、なんとなくまとまったように見せかけたりすることができるだろう。

 しかし、ただ言葉のみがある文章のなかでは、話し言葉よりもっと厳密な論理構成を備えていなければ論を先に進めることはできないし、短い話し言葉の積み重ねだけでは、重要な意思決定の場面で直面する複雑性に堪えうる頭を鍛えることはできない。

(3)の人についてはあまり過大評価をせずに、じっくりと文章を書く習慣をつけさせることが本人の思考力を高めるために必要である。

(2)の人については論理性のある文章を構成する力を過小評価することなく、自分の論理に溺れずに、相手の興味にあった当意即妙の再編集の能力を磨き、柔軟な構成で話を組み立てられるよう指導することが必要である。自分固有の思い込みや価値判断だけにとらわれずに、要素を組み替えたり、順序を入れ替えたりすることで、新しい思考や価値観が発見できる面白さを感じさせることができれば、このタイプの人は大きく伸びる。

 そして、それらの技術の習得を通じて、(2)と(3)の人を(1)にしていくことこそが、企業の人材育成に求められることであろうと私は考えている。しかしながら、直感的なわかりやすさと、耳なじみの良さ(加えて見栄えの良さも)が重視される昨今の状況下にあっては、上記のような私の主張も、完全なマイノリティーの意見になってしまっていることを日々実感している。絵文字やYouTubeで十分に分かり合える人たちにとっては、文章を書けなどというアドバイスは、大きなお世話にしか聞こえないようである。

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山進、構成/ライター 奥田由意)