勉強は自分にとって、もともと他人ごとで、単なる面倒な義務でした。しかし、自分が優先したいゲームにとって、どうやら切り離すことができないものらしい。ゲームを全力でやりたいのであれば、勉強も他人ごとでは済まされない。そうしてついに、勉強を自分の問題として覚悟したのです。
僕は魚料理が好きなのですが、「義務」はそのおいしい魚を食べるときについてくる小骨に似ているかもしれません。丸ごとかぶりつきたいのに、そのまま食べると満足に味わえない。魚を楽しむためには、骨をきちんと取り除いてやらないといけない。それと同じです。
英語の勉強を「受け入れた」結果起きたこと
この体験は、大人になった今でも役に立っています。学生時代には英語の勉強という「義務」として面倒だったものが「世界大会で、あの海外選手と話したい」と思った途端に自分の問題に変わる。もちろん英語を勉強すること自体が特別好きになったわけでもなく、面倒な存在であることも変わらない。突然ペラペラ話せるようになるわけでもない。
でも義務を「やってみよう」と受け入れたときに、勉強に対するマイナスの感情が消え、負担は大きく減りました。自分から積極的に海外勢に話しかけて雑談したり、ゲームに関連する単語を覚えたり。「ただこなすもの」であったときに比べて、勉強でもいろいろな工夫をするようになったのです。
現実は自分が好きなことだけ、やりたいことだけ、では立ち行かないものです。何らかの義務を大なり小なり背負うことはあるでしょう。例えば生きていくための仕事が、好きでもやりたいことでもない。そんなときに嫌々やるのか、自分の問題としてやると決めるのか。同じことでも中身は大きく変わっていくのです。