歴史上に名を残す偉人は、当然「すごい」ことを成し遂げている。しかし、彼らとてみな人間。「すごい」と同じくらい「やばい」面だってあるのだ。
そんな偉人たちの「すごい」と「やばい」を両面から紹介する本が、書店で売れ続けているという。歴史人物の思わぬ「やばいエピソード」とギャグ漫画家の和田ラヂヲのシュールなイラストが人目をひく。各時代の概要をざっくりまとめた漫画は、それぞれ横山了一さんと亀さんが担当した。
児童書として企画された本書だが、じつは大人にも売れている。
それもそのはず、ふざけた本かと思いきや『やばい日本史』は東京大学教授の本郷和人さんが、『やばい世界史』は東京大学名誉教授の本村凌二さんが監修を務めているのだ。
今回は監修の二人による特別対談の第3回。一般の読者ではなかなか判別がつかない「いい歴史本」と「あぶない歴史本」の見分け方を聞いた。

第1回 東大教授が語る「歴史は“やばい”から入ると面白い!」
第2回 子どもが歴史好きになるには、どうしたらいい? 東大名誉教授と東大教授が本気で考えてみた

(聞き手:滝乃みわこ)

「フィクション」と「ノンフィクション」を区別できれば、どんな本でも楽しめる

――『東大教授がおしえる やばい日本史』『東大教授がおしえる やばい世界史』ではそれぞれ、選りすぐりの「やばい」エピソードを紹介していました。やばいとはいえ、歴史の史料に基づいた記述なのが支持されたようですね。
しかし、歴史の先生からすると、内容的に間違っている「あぶない歴史本」というのも、世の中にはあるんじゃないでしょうか。一般の読者は、どうやって「いい歴史本」と「あぶない歴史本」の違いを見分ければいいと思われますか?

東大教授がおしえる「いい歴史本」「あぶない歴史本」の見分け方本郷和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
東京都出身。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。大河ドラマ『平清盛』など、ドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わっている。おもな著書に『新・中世王権論』『日本史のツボ』(ともに文藝春秋)、『戦いの日本史』(KADOKAWA)、『戦国武将の明暗』(新潮社)、『上皇の日本史』(中央公論新社)など。


本郷:うーん、僕はノンフィクションと、フィクションの区別がついてさえいれば、どんな本でも楽しんでいいんじゃないかと思いますが。
歴史家目線でいえば、小説家さんが書いた歴史本を読んだら、気になるところの一つや二つは絶対にあるじゃないですか。

本村:いろいろありますね。僕なんかの場合、作家さんと知り合いのことも多いし、すごく気になる場合は直接言っちゃうけど。そうするとちゃんと受け止めてくれるし、それでいいと思ってます。

本郷:作家さんが面白く書いてくれるというのは、すごく価値がありますよね。学者の書いたものは確かに信用できる。だけど、難しすぎたり面白くなかったりして、なかなか読まれないものも多い。事実を知ってることと、面白く伝えることはまた違う話ですから。どういう順番で物語ればいいかっていう「面白く書くテクニック」を作家の方はちゃんと知っている。

東大教授がおしえる「いい歴史本」「あぶない歴史本」の見分け方本村凌二(もとむら・りょうじ)
東京大学名誉教授。博士(文学)
熊本県出身。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。東京大学教養学部教授、同大学院総合文化研究科教授を経て、早稲田大学国際教養学部特任教授(2014~2018年)。専門は古代ローマ史。『薄闇のローマ世界』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞、『馬の世界史』(中央公論新社)でJRA賞馬事文化賞、一連の業績にて地中海学会賞を受賞。著書は『はじめて読む人のローマ史1200年』(祥伝社)『教養としての「世界史」の読み方』(PHP研究所)『地中海世界とローマ帝国』(講談社)など多数。

本村:うん、だって史料を読むのって訓練を受けていないと無理ですよ。世界史の場合だと、そもそもラテン語が読めないと話にならない、なんてこともある。作家と学者では、役割が違うと思います。

本郷:それでいうと、作家の柴田錬三郎先生と歴史家との逸話がありますよね。歴史家が柴田先生に「おまえはいいよな、口から出まかせで、好きなことを書けるから」と言ったら、柴田先生が「おまえらはいいよな、史料に基づきさえすれば、書けるんだから」と言ったという……。どっちもどっちという感じがしますけれど(笑)。

 

嘘くさいエピソードが、真実のこともある

本村:史実をどう捉えるか、っていう問題もあるよね。本郷先生は「大スキピオ」ってご存じですか?

本郷:えーと、「象でアルプスをこえたハンニバル」と戦ったローマの将軍の……?

本村:そう、その大スキピオには湖を歩いて渡ったという伝説があります。これだけ聞くとフィクションという感じがするけれど、実際彼は湖を渡っている。
その湖は海と水続きになっているんだけど、どうやら事前の情報収集である時期に引き潮になることを知ったみたいなんだよね。それで引き潮に合わせて湖に行くと、水深が浅くなっているから、歩いて渡ることができる。するとほら、かっこいいわけです。「俺たちにはその神の加護がある!」みたいになる。
これって、書き方によってだいぶ印象が変わりますよね。

本郷:そうですね。それを日本でいうなら新田義貞の鎌倉攻めですよ。「太刀を神に捧げて海中に投じたら海に道ができた」という伝説があるんです。
これをね、実際やってみたもの好きな人がいるんですよ(笑)。

――実験したってことですか?
本郷:うん、実際にやってみたらね、引き潮の時に歩けるらしいんです。これもおそらく、地元の人に前もって聞き込みをしていたんでしょうね。

――事実がベースにあっても、どんな表現をするかによって、印象がガラリと変わるわけですね。
本郷:だからフィクションがダメとかそういう話ではまったくなくて。大事なのはフィクションとノンフィクションというのを、切り替えて見ること。書いてあることを、どんなふうに受け取るか、自分で考えることなんじゃないかと思います。「あぶないのと正しいのを、ちゃんと切り替えて読んでね」という。