歴史家のテンションが上がる「史料」とは?
本村:じゃあ、どうやってフィクションとノンフィクションを見分けるかっていうと、どんな「史料」に基づいているか、ということになる。
本郷:そしてその史料があぶないかどうか、そういうことを見極めるのが我々研究者の仕事でもあるわけですよね。
本村:うん、ただ「あぶない史料」と「正しい史料」以外に、「グッとくる史料」と「こない史料」というのもあります。
ローマ帝政時代の歴史家に、タキトゥスという人がいるんです。もう一人、同時期にスエトニウスという人もいた。
二人の歴史家としてのスタイルは対照的でした。タキトゥスは史料を自分なりに読み込んで、それをまとめ上げていく。一方のスエトニウスは「こんな噂があった」というのを、ボンボンボンボンそのまま書いていく。
いわゆる歴史家としての腕前が優れているのは、明らかにタキトゥスのほうです。でもね、われわれ二十世紀や二十一世紀の歴史家が読むとき、グッとくるのはスエトニウスの史料なんです。タキトゥスの史料は、彼の史観でアレンジされてしまっているでしょう。スエトニウスみたいに、生の史料をポンポン書いておいてくれたほうが、かえって使いやすいということもあるんですよ。
本郷:使いやすいですね。日本の場合だと、藤原定家。あの人の「明月記」という日記は使いやすい。藤原定家は非常に物見高い人で、いろんな噂を聞いたとおり書いちゃってくれる。もしこれをタキトゥスみたいに独自に咀嚼して、自分の学説だとかを「こうだ!」って主張されると、それは史料としては使いにくい。
――そういう史料を、ちゃんと見分けられるというのが大前提ですよね。これは主観で書いてる、これは噂をそのまま書いてる……というふうに。
本郷:もちろんです。さっき本村先生はサラっとおっしゃったけど、これができるようになるまでが大変です。何十年とかかかる。
本村:そう、だから一般の読者に「正しい史料を見分けろ」なんて要求できないよね。それはさっきも言ったとおり、研究者の仕事だから。