古文書を「読む」とは、どういうことなのか
――「正しい史料を見分ける」のが研究者の仕事だということですが、そのためには古い文書を読めることが前提ですよね。勉強すればだれでも読めるようになるものなのでしょうか。
本郷:古文書の解読というのは、やっぱり才能がある人とない人と、はっきり分かれます。
だいたい60点くらいまでのレベルまでは、みんな、努力さえすれば読めるようになるわけ。そこまでは、時間と成果が比例するんです。
ところが、そこから先は違う。才能のある人はどんどん読めるようになるし、才能のない人はそこから先、1点上げるのに今までの努力の10倍ぐらい必要になってくるの。そういう世界なんです。
僕の場合は、才能ではなく努力で読めるようになったタイプ。じゃあそういう人がどうやって古文書を読むかと言うと、「スタイル」なんです。
――スタイル、ですか?
本郷:そう、古文書には武家文書・公家文書といった、いろんなスタイルがあるんです。それをとにかく覚えていく。
たとえば、「仍執達如件(よってしったつくだんのごとし)」という言葉が古文書ではよく使われるわけ。それを知っていれば「仍●●如件」というふうに文章の一部がグチャグチャっと読めなくなっていても、ああここは「執達」が入るなと推測できる。
だからスタイルが非常に大事なんです。
本村:日本史の先生は、もう古文書を読めなきゃお話にならないということなんですけど、われわれ日本の西洋史の研究者は、なかなかその次元には行けないですね。
つまり史料である写本とかパピルスとかが、現地に行かないとないわけだから。だから近代の人はともかくとして、ラテン語やギリシア語で公刊された史料を読むことになることが多いわけです。
本郷:それが読めるだけ、すごいじゃないですか。
本村:いやいや。史料そのものじゃなく、写された写本を読んでいると、それゆえの大問題に発展することもあるわけです。
たとえば、先ほど話に出たタキトゥスの史料で、ネロのキリスト教徒迫害について書かれたものがあります。それを読むと、「クリストス」つまりキリストの名前の綴りの「I」が、「E」から「I」に直された形跡がある。
本郷:それが、どういう問題になるんですか?
本村:ふつうは、書き間違えたものをあとで訂正したんだと考えるでしょう。だけど、ネロ帝の時代には「クレストス」というユダヤ人がいて、扇動者だったんだよ。だからユダヤ人を扇動してしょっちゅう騒動を起こしていた「クレストス」と、のちに流行った「キリスト」教徒が混同されているんじゃないかと言われているんです。
そのたった一文字をどう説明するか。どっちでも解釈ができるわけだから、もめますよね。
でも、だいたい西洋の学者はキリスト教徒だから、キリストが最初に迫害されたんだと主張する人が多いですが。
本郷:そういう事例って、日本史にはなかなかないですね。もちろんこの一字はどういうふうに解釈するのか、という議論はありますけど、そんなに意味がでっかく変わっちゃうのは、なかなか。
本村:写本についてはまだあって、写本を書き写している人が、そのまま写さないで自分の意見を書いちゃうこともあります。だから史料に深入りしていくと、どこがまでが本物で、どこが付け足しかという問題も出てくる……。
本郷:それはだいたい何世紀ぐらいの写本なんですか?
本村:今、現在残っているのは、5世紀以降のものですね。それでアルファベットに小文字ができたのが9世紀ぐらいで、そのころからの写本がやっぱり多く残っています。
プラトンが実際に生きていたのは紀元前5世紀だけど、写本は紀元後の8世紀とか、9世紀のものしか残っていません。だから1000年以上何度も書き写されたものしかないんだ。
本郷:それにしても、写本が残っているだけでもすごいですね。本当に「残す」ということがいかに大切かということを実感します。