『ブラック・スワン』でサブプライムローンの破綻を言い当てたベストセラー作家であり、舌鋒鋭くこの世の真理を突きつける「現代の急進的な哲学者」、ナシーム・ニコラス・タレブ。そんなタレブが新著『身銭を切れ』で明らかにした、不確実で予測不可能な世界で私たちがとるべき「身銭を切る」という生き方について、読書家にして実践・思索家の正木伸城氏が解説。その切り口は、今や私たちに欠かせないあのSNSだ。

「まず、総理から前線へ。」――かつて糸井重里さんが、そんなコピーを書いた。私はこのコピーを見る度に、かつての太平洋戦争の日本の上層部が、戦地にいた命がけの若者に比べて遜色がないほどにリスクを背負っていたのか? と問われているように感じる。戦争を始める為政者が、どれほどの痛みを抱いていたのか。

 もちろん、意思決定者が戦争の最前線に立つわけがない、と笑うのは簡単だ。だが、今なおそのレベルのリスク・テイクを為政者に求める人間がいる。その人物こそがナシーム・ニコラス・タレブだ。タレブは、新作『身銭を切れ』で、為政者と戦地の若者の間にあるような非対称を舌鋒鋭く批判し、「非対称の問題は、社会システムに限らず、私たち自分の日々の態度にもかかわること。だからわが身に引きあてて考えてみよ」と推奨する

 なぜ、タレブはそこまで「身銭を切る」ことにこだわるのか。SNS、特にTwitterを議題に考えてみたい。

身銭を切らない人は失敗に学ばない。進化できない

「トカゲの尻尾切り」などという経営手法が使われるようになったのはいつからだろう。何らかの不祥事が会社に起きた時、上の者が下の者に責任を押しつけて追及から逃れる姿は見苦しい。著者のタレブは、そんな経営的な態度とは対置的な意味で「身銭を切る」という語を説明する(同書21ページ)

 利益の分配の話ではなくて、むしろ非対称の問題だ。いわば損害の一部を背負い、何かがうまくいかなかった場合に相応のペナルティを支払うという話だ。

 誰が得をするのか。どうすればフェアに利得を分配できるのか。タレブはそういったことを主題にしない。「身銭を切る」とは、リスク(つまり「得」ではなく「損する可能性」)を引き受けることだ。全責任を担うリーダーが過失を犯した時に、現場に責任を押しつけ、ペナルティを課すことがあるだろう。「自分が支払う」ではなく「部下に課す」という形で、上下関係という立場の非対称を利用し、「課す側/支払う側」というアンフェア、つまり非対称性をあらわにするのである。

 責任感の強い人は、担っているものの推移を真剣に見つめる。たとえば、「不調な航空機を技師として点検する人」と「技師として点検し、かつ試乗までする人」とでは、点検作業への切迫感が違う。後者がもし不備を見過ごせば、墜落死するかもしれないからだ。両技師同士でも、こういった切迫感の非対称があるのだから、点検依頼人と点検者の間は「なおさら」だろう。

 タレブは、この「切迫感の非対称」をつかまえて、こんな弊害を指摘した(同書38ページ)

(ペナルティをかわすくせにちょっかいを出す人々)がいつまでたっても学習しないのは、ヤツらが失敗の被害をこうむっていないからだ。

 身銭を切らない人は大抵、痛手を負わない。可能な限り失敗を引き受けない形をとろうとする。失敗の痛みに鈍感なら、当然「失敗から学ぼう」という気持ちも(あまり)わかない。ゆえにタレブは結論する(同書38ページ)

 身銭を切らないかぎり、進化は起こりえない。

 失敗から学ばないからだ。哲学者ヘーゲルは「私は、人々が一度たりとも歴史から学んだことがないことを歴史から学んだ」(要旨)との名句を残した。タレブが言うとおり、身銭を切れる人は少数派である。彼ら以外のほとんどは「失敗を糧に学ぶ」ところまで到達できない。この意味で歴史は、未来を知る教科書にはなりにくい。