リスクを引き受けない限り、それを人生とは呼べない
身銭を切るからこその進化・成長がある。その一方でタレブは、断りも入れている。誰もが意識的に身銭を切るべき、と彼は言わない。リスクを特に意識すべきなのは「職業的に偏りがあり、その職業の構造そのものからして、自分で責任を負うことなく他者に危害を及ぼしかねない人々」(同書60ページ)である。冒頭で紹介した「戦争を始める為政者」はその典型だろう。
もっと言えば、彼は、身銭を切ることの効能だけでなく、ささいなところから身銭が切れることも教えてくれる。というより、そもそも「人生とは犠牲とリスク・テイク」「リスクを引き受けるという条件のもと、一定の犠牲を払わないかぎり、それを人生とは呼べない」(同書211ページ)とまで言い、特段の職業者以外の「誰もが」責任を引き受ける心性を持つことをも示唆してくれる。そして、リスクの引き受けの程度が「適度である」なら、学びも良質なものになるとタレブは言う。
私は、このタレブの問題意識に近いものを持っている。たとえばSNSの運用において鮮明化する意識がそれだ。匿名アカウントと実名アカウント、どちらの発言がより身銭を切るものになるだろうか? そう問われたら私は率直に「後者だ」と言う。
私のSNSはすべて実名だ。Twitterも、である。もちろんアイコンも自分の顔にしている。なぜそうするかというと、記名なしのネット運用に抵抗感を抱くからだ(だからといって匿名がダメと言いたいわけではない)。個人が特定されることがまずない場所から、もし私が発言をし始めたら、たぶん私は無責任な言葉を呟き始める。確たる証拠がない情報を広め、「私」ではなく「そもそも人間は~」といった大文字の主語も使いたがるだろう。そんな風になる自分が嫌だし、でも「そうならない」自分を想像もできないので、私は実名で発信している。
ところが、実は実名で発信することもまた身銭を切っていないのでは、と論じる人がいる。いったい、どういうことなのだろう?