実名・顔出しでSNSをやっている人こそ卑劣?

 実名アカウントと匿名アカウント、どちらが身銭を切っているか? 何となく答えは明確なように思える。しかし、ことは簡単ではない。荒木優太さんの『無責任の新体系』に、こう書かれていた。

「名前は言葉の重石である。けれども、ふと思うことがある。匿名的な文化が横にあることを知っていながらなお実名や実写を用いることには、匿名の蔭に隠れる卑怯と同じくらいの、或いはそれ以上の、いやらしさと屈辱があるのではないか」

 実名の人にこそ、卑劣な何かがある――? 私はこれに戸惑った。しかも荒木さんは、こう付言する。

「実名性でもって匿名の卑怯と矮小を非難するとき、言葉は自分を飾る倫理のアクセサリーとなって、責任ある自分をアピールする道具になりさがる。ほら、こんなに一貫したことを言ってきたんだ。ほら、こんなに責任感があるんだよ。言葉の数々が責任感ある自分を強化するための武装品として装備される」

 つまり、こういうことだ。実名の人は、匿名者に比べて責任ある立場になりがちではある。それは事実だ。それゆえ、実名者は「しっかり」せねばと注意を払う。しかし、Twitter上での「しっかり」した態度は、ユーザーの人格のごく一部でしかない。Twitterでの「しっかり」が実態から離れ、肥大化し、暴走してしまえば、極端な話、「リアルのお前はヘボなのに、Twitterではしっかり者になってるよな」といったギャップが生まれる

 実名の人にとってそれはおもしろくない。そのため実名者は、Twitter上で「しっかり者」の演出を加速する。「しっかり」をPRしだす。すると、実名で身銭を切っていた彼は、いつの間にかTwitterを使って自分を大きく見せ、リスクを引き受けるのでなく、利益が得られそうなリスクを使うことに腐心しだす。たとえば、人気を集めたい人にとって利用価値のあるリスクといえば「過激で先鋭的な極論をズバリ言う」などだろう。そのリスクは「引き受けるもの」ではなく「ウケると思われるもの」「利用するもの」であって、もはや「身銭を切っている」とは言えない。そうなってしまえば、Twitterは、まさに「自分を飾る倫理のアクセサリー」に、つまり「口先だけ性」を高める場に変わる。

 そんな実名者が、匿名ゆえの安全圏から過激な言葉を発信しまくる人と言い争いを始めたら、どうなるか。それは皆さんもよくご存じだと思う。リスクを負わない無責任者の跋扈は、SNSを回遊すれば高確率で探し出せる。