可視化の是非については、当事者の間でも意見が分かれていますが、私は「セクシュアル・マイノリティは日陰の存在でいい」「今のままでいい」「寝た子を起こすな」といった意見には、やはり賛同できません。多くのセクシュアル・マイノリティが、真の意味で、一人の人間として健やかに生きられる社会が実現するためには、やはり可視化が必要だと思うからです。
可視化が進む過程で、当事者が、
今まで遭遇したことのない攻撃や痛みも
多くの偏見は、「未知のもの」「自分とは違うもの」への恐怖から生まれます。現在の日本社会には、大きく分けて、「当事者の知り合いがいる人」と、「当事者の知り合いがおらず、メディアや『新宿二丁目』という『別世界』の中だけにしかセクシュアル・マイノリティが存在しないと思っている人」の二種類の人が存在し、両者の意識にはかなりの隔たりがあります。しかし、後者のような人が、「自分の家族や友人や同僚や隣人の中にも、セクシュアル・マイノリティがいて、当たり前に生活している」ことを心で理解するようになれば、少しずつ偏見は薄れていくでしょう。
もちろん、可視化が進む過程で、当事者が、今まで遭遇したことのない攻撃や痛みを味わうおそれも十分にあります。しかし、心身を蝕んでいく緩やかな痛みを抱え続けるより、一時的な痛みはあっても、健やかで憂いの少ない状態を手に入れた方が、よほど建設的に自分の人生を生きられるのではないかと、私は思うのです。
可視化をより進めるためには、「当事者一人ひとりのカミングアウト」も非常に重要ですが、私は誰でも彼でもカミングアウトするべきだ、とは言いません。人はそれぞれ、性格も考え方も置かれている環境も異なります。「できる人が、できる範囲でカミングアウトをする」。その積み重ねが大事なのだと思います。