明治天皇や松方正義首相なども、すぐにニコライが入院している京都へと向かった。また、多くの国民がニコライに陳謝の電報や手紙を送り、病室は見舞いの品々が山のようになった。

 まさに常軌を逸した過剰反応だが、当時の日本人は、ロシアがこの大津事件を口実に宣戦布告してくるのではないかと恐れたのである。どう転んでも、当時の日本の軍事力では、ロシアに対抗できない。となれば、日本は植民地に転落し、みじめな生活を強いられることになると信じ込んだのだ。幸い、日本の誠意ある対応により、ロシア政府とニコライは満足の意を表したが、この外交的責任をとって青木周蔵外相は辞任した。

情報操作による煽りで暴走する国民の主戦論

 そこから3年後に起きた日清戦争の戦後では、ロシアを含む三国干渉によって日本の思うような戦果にならなかった。このため、三国干渉以後の日本政府は「いつかロシアを負かしてやる。今は臥薪嘗胆である」と唱え、国民を煽ってすさまじい軍備増強に協力させた。その結果、国民は「これだけの軍拡をやったのだから、日本の軍事力はロシアに匹敵しているはずだ」と安易に考え、主戦論がいよいよ熱を帯びてくる。

 決定打になったのが、同年六月に東京帝大の戸水寛人を中心とする七博士が政府に提出した開戦を求めた意見書だった。博士というのは当時は非常に権威があり、オピニオン・リーダーだった。今でいえば、インフルエンサーや人気芸能人に近い。

 コロナ禍で検察庁法改正案を延期に持ち込んだのは、SNSで発信した芸能人の力だったが、同じくらいの影響力を持つ七博士の意見が新聞に掲載されると、開戦を求める声はにわかに大きくなった。

 主戦論の暴走は、新聞などのメディアにも大きな責任があった。購買部数を伸ばすため、ほとんどすべての新聞や雑誌が主戦論に転じ、世界各国がロシアの勝利を予測していることは報じず、国民が喜ぶことだけを伝え、主戦論を煽ったからである。

 いずれにせよ、政府や軍と国民の間には、対外危機に対する大きな認識のずれが存在したが、刺激された国民感情をとどめることはもはや不可能となり、軍部も戦争やむなしと考えるようになったのである。