「厚生省ができるまで、日本で衛生行政の最前線を担ったのは警察だった。警察は内務省の管轄であり、学童や学生の健康維持・増進を受け持ったのは文部省だった。こうした縦割りに、ときにてんでんばらばらに進められていた衛生行政を、陸軍の力を使って一元化できないか、と小泉は考えた」(P.81)

徴兵検査の成績を上げるため
結核の撲滅に血道を上げた

 では、陸軍の軍医はなぜそんなことを考えたのかというと、徴兵検査の成績を上げるためだ。小泉自身が作成したデータによれば、1930年当時、日本の結核死亡率は欧米に比べて突出して高かった。強い兵士をじゃんじゃんつくって戦地に送りこむには、「結核撲滅」が急務。そのために厚生省は生まれたのだ。

 それを示すのが、厚生省が立ち上がった2年後の1940年5月1日から3カ月かけて行われた、全国民を対象とした大規模な健康診断だ。

「日本医師会医師四万人、産組中央会系病院百四十、済生会病院百廿、日赤系六十八病院の各医大もこれに参加し各府県の健康相談所、結核療養所と協力して結核病或はこれに類ずる不健康者をしらみつぶしに調べ上げようといふ未曾有の大がかりなもの」(読売新聞1940年5月1日)

 1941年に小泉が厚生大臣になると、この「結核撲滅」はさらに加速。翌42年には「結核対策要綱」が発表される。これは「政府はわが国の国辱病として保健対策中の懸案となつている結核撲滅に主力をそそぎ厚生省が中心となって具体的成案を得た」(読売新聞1942年8月22日)というもので、国民を「健康者」「弱者」「病者」に3分類し、「病者」は「結核病床に収容」というルールが定められている。今の感染症法を彷彿とさせる内容だ。

 ここまでお話をすれば、筆者が何を言いたいかわかっていただけるのではないか。厚労省という組織のそもそもの存在意義は、「結核撲滅」に代表される感染症対策なのだ。感染症対策といえば厚労省、厚労省といえば感染症対策なのだ。そんなアイデンティティを、外野から「現場が疲弊するから諦めろ」などと多少ガチャガチャ言われたくらいで、否定することができるだろうか。