「あの西和彦が、ついに反省した!?」と話題の一冊、『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。IT黎明期に劇的な成功と挫折を経験した「伝説の起業家」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴った。ここでは、西氏が、大学在学中に「アスキー」を設立するきっかけとなった“大喧嘩”について振り返る。

アスキーの創業者。左から郡司明郎さん、西和彦、塚本慶一郎さん。

図々しくいけば、面白がられる

 自分は頭のキレで勝負ができる人間ではない。凡人の自分が、天才と戦って勝つためには、集中力と持続力を振り絞るしかない――。僕は、二度の東大受験の失敗という痛手によって、そう堅く心に決めた。

 そして、僕は早稲田大学の理工学部に進学。専門課程に入る前から、ロボット工学や電子工学など、面白そうな研究をされている教授の研究室に顔を出した。図々しく質問などをしているうちに、可愛がっていただくようになり、毎日のように出入りすることを許されるようになった。今でも、図々しさって大事だな、と思う

 当時の僕にとって、研究室はパラダイスだった。

 憧れのコンピュータを使うことができるうえに、卓越した研究者がいろいろ教えてくれるのだから当然だ。暇があれば研究室に顔を出して、コンピュータにかじりつく毎日だった。最初のころは、大学のコンピュータでゲームのプログラムを書いたりしていたが、そのうち、研究に加わるように指示された。

 ロボット研究室では、ロボット制御のためのコンピュータに取り組むように言われて、「PANAFACOM」のミニ・コンピュータとハードディスクの接続に取り組んだ。また、電力研究室では、国産ミニコンの名機といわれた日立の「HITACー10」を使って、発電所から送電線などをモニターするシステムを開発するプロジェクト・チームに入れと言われた。

 このプロジェクトをもとに、メンバーは卒論を書くことになっていたのだが、気がついたら、僕が「君はこれをやって」「君はあれをやって」とプロジェクトを差配するような立場に立っていた。みんな四年生だったが、誰も僕が学部の二年生だとは思っていなかったらしい。あるいは、生意気だと思われていたのだろうか……。

 そんなわけで、僕は、それなりに充実した大学生活を送っていた。

 アルバイトでも忙しくしていた。高校3年生のときに行った「国際コンピュータアート展」(連載第4回参照)の主催者だった出版社から依頼されて、『コンピュータ・エージ』という雑誌のライターを始めた。小遣い稼ぎでもあったが、時代の先端を走っている人々から直接話が聞けるうえに、その分野の人脈を広げられるのも魅力だと思ったのだ。

 取材は、だいたい1時間ぐらいだったが、エッセンスの話は5分くらいのものだ。その5分の内容を、2時間か3時間かけて文章にする。当時は原稿用紙に手書きだから、今よりも時間がかかった。それで、だいたい記事一本で3000円か5000円。1万円くれるところはなかった。

 ふと思ったのは、当時、僕は家庭教師もしていたが、そっちのほうが楽だな、ということだった。毎回2時間なら2時間授業したら、それで完結するのもよかった。しかも、時間換算すれば、もらえるお金も多かった。

 それに、コンピュータの最先端で仕事をしている人々の話を聞くと、「ふーん」と勉強になるのだが、「もっとこんなこともできるのでは?」「僕だったら、こうする」といった思いも湧き上がってくる。要するに、僕は、自分で「モノ」を作りたかったのだ。だから、ライター業はそれなりに楽しかったが、「これが自分の仕事なのか」と自問したら、「ちょっと違うなぁ」というのが正直なところだった。