はじめて「雑誌」を立ち上げる

 その次に作ったのは、工学社という出版社だった。

 当時、CQ出版で『インターフェイス』という雑誌の編集者だった星正明さんに誘われたのがきっかけだった。僕が『コンピュータ・エージ』などのコンピュータ雑誌で書いていたのを知り、『インターフェイス』でも書かないかと声をかけられたのだ。そして、その後、付き合いが深まっていくなかで、一緒に雑誌を作ろうと声をかけられて意気投合したのだった。

 それで、僕が声をかけたのが、後にアスキー出版を一緒に創業する郡司明郎さんと塚本慶一郎さんだった。

 郡司さんは、僕が大学から紹介されて入った、下宿先の大家の息子さんだった。僕の9歳年上で、当時、日本のソフトウェア企業の草分けだったコンピュータ・アプリケーションズ(CAC)という会社に、プログラマーとして勤めていた。

 プログラマーだから話が合う。夜中に帰宅して居間で休んでいる郡司さんに話しかけて、コンピュータやエレクトロニクスの話に熱中したものだ。その郡司さんが、ある日突然CACを辞めた。ちょうどそのタイミングで、星さんから「雑誌をやろう」という話があったので、郡司さんを誘うと、「じゃ、やろうか」とほとんど二つ返事で応じてくれたのだ。

 ちなみに、僕は郡司さんのご家族には頭が上がらない。

 というのは、木造家屋だった郡司家の1階に間借りしていたのだが、部屋にいくつもの本棚を持ち込んで、ぎっしりと蔵書を詰め込んだ結果、床が傾き始めて、ついには床が抜け落ちてしまいそうになったからだ。僕は下宿を追い出され、郡司家の最後の下宿人となった。

 塚本さんとは、雑誌『コンピュータ・エージ』の取材で知り合った。

 当時、彼は電気通信大学の学生で、MMAというマイコン同好会の設立メンバーだった。MMAとは、「マイクロコンピューター・メイキング・アソシエーション」、すなわち「マイコンを作る会」の略称である。大学の同好会を紹介する連載の一環で、MMAを尋ねたのが最初だった。

 彼は、コンピュータの勉強をするために電気通信大学に入るが、お目当てのコンピュータには触らせてもらえなかった。不満を募らせていた彼が、アメリカの雑誌で「マイクロ・プロセッサーを使えば、個人でもコンピュータが作れる」という記事を読んで、「マイコン・マニア」になるのは当然の成り行きだった。そして、そんな彼と僕が意気投合するのも当然の成り行きだった。

 塚本さんは、手作りのマイコンとシンセサイザーを繋いで電子音楽をつくるなど、アートにも興味を持っていたから、なおさら話が合った。郡司家の下宿を出て、引っ越した新宿駅南口すぐのマンションに、彼は、しょっちゅう遊びに来てくれて、夜通し語り明かしたものだ。そして、雑誌立ち上げに加わってくれることになったのだ。