僕がどうしても譲れなかったもの

 こうして、星さん、郡司さん、塚本さん、そして僕の四人の共同出資で工学社を設立して、1976年11月、日本初の「ホビー・エレクトロニクスの情報誌」として『月刊 I/O(アイ・オー)』を創刊する。「I/O」とはコンピュータ用語で、入出力(INPUT/OUTPUT)の略号。当時としては、斬新な雑誌名だった。

 誌面レイアウトや印刷所とのやりとり、進行管理などは、編集経験者である星さんが担当してくれた。ほとんどの記事は、塚本さんと僕が、いくつものペンネームを使って書きまくった。そして、社会人経験の豊富な郡司さんが、営業を担当するという役割分担だった。

 雑誌一冊をふたりで書くのは、思った以上にたいへんだった。昼も夜もなく取材をして書きまくる。大学に行っている場合ではなかった。それだけに、初めて「自分たちの雑誌」が完成したときには嬉しかった。

 しかも、雑誌は思いのほかよく売れた。

 初版3000部を完売。好調なスタートだった。しかし、ほどなく軋轢が表面化していった。というか、僕が星さんとぶつかるようになったのだ。

 理由は大きく二つあった。まず、編集方針だ。当初、「ホビー・エレクトロニクスの情報誌」として、『I/O』は、シンセサイザー、コンピュータ、アート、ロボットなどをバランスよく取り上げていたのだが、星さんの意向によって、次第にゲーム中心の誌面構成になっていったのだ。

 これに、僕は納得できなかった。

 たしかに、テレビ・ゲームが売れていたから、ゲームを誌面で取り上げれば、広告も入りやすかったのかもしれない。しかし、僕はゲームの雑誌がやりたかったのではない。コンピュータがメディアとなって、社会を作り変えていく、その最先端の動きを伝える雑誌を作りたかったのだ。

「大喧嘩」と「感謝」

 しかも、僕の目には、星さんは工学社を自分の会社と考えているように見えた。

 僕たちも出資をしたのだから、工学社は”四人”の会社のはずだ。しかし、星さんは、僕がいくら「コンピュータ・メディア論」を雑誌の柱にすべきだと主張しても聞く耳を持たなかった。そして、自分の編集方針をゴリ押ししようとしているように見えたのだ。

 決定的だったのは、星さんのお母さんが上京してきたときに、僕たちのことを露骨に”従業員”として扱ったことだ。星さんが、お母さんに、僕たちのことをそのように説明していたということではないか……。そう疑いをもった僕は、星さんと大喧嘩をした。

 星さんも僕も頑固だから、折り合う余地は全くなかった。

「もはやこれまで。ならば、自分たちで雑誌をやろう」と思った。そして、星さんに啖呵を切って、工学社を飛び出した。『I/O』創刊から半年後、1977年5月のことだった。僕の株式は、星さんに引き取ってもらった。

 すぐに郡司さんと塚本さんに、自宅マンションに来てもらって、「一緒にやろう」と説得。二人とも、僕と同じような思いをもってはいたが、逡巡もあったようだ。いきなり三人が辞めたら、『I/O』がどうなるのかを心配していたし、星さんのことを思いやる気持ちもあったようだ。しかし、最終的には僕の説得に応じて、工学社を退職することを決断。三人で、アスキー出版を設立することになる。

 ひとつ、書き加えておきたいことがある。

 僕は、あのとき工学社と訣別する決断をしたことは、間違っていなかったと思っている。あの決断がなければ、アスキーという会社は存在しなかった。

 ただ、突然、僕たち三人が辞めて、雑誌を継続させるのはたいへんなことだったに違いない。しかし、星さんは、その難局を乗り越え、現在に至るまで工学社を営々と続けていらっしゃる。これは、実に立派なことだと思う。

 何より、星さんが、一ライターだった僕を、工学社に誘ってくださったからこそ、その後の僕はあるのだ。大喧嘩をした僕が言うのもなんだが、星さんには感謝しなければならないとずっと思ってきた。