「モノ」をつくってお金になるのは楽しい
秋葉原を徘徊しては、気に入った電気店にもしょっちゅう出入りした。
僕は興味あることは、なんでもズケズケと話しかけるから、店のオヤジ連中ともどんどん仲良くなった。すると、「こんなものの試作頼まれてるんだが、どうしたらいいか悩んでるんだ」といった相談を受けることもあった。
僕が、「それだったら、こうすればええやん」と提案すると、「なるほど、ちょっとやってみてくれないか?」と頼まれる。「いくら?」と訊くと、ちょっとした金額が提示される。当時は、マイコンの立ち上がり期だったから、こんな話はいくらでも転がっていた。
あるときは、1日7万円の約束で、マイコンを使った電子回路の設計、製作を頼まれた。あるいは、LED(発光ダイオード)を点滅させるシステムをつくって、20万円くらいのお金になったこともある。「モノ」をつくることができるのも楽しかったが、やっぱり、それがお金になるのが面白かった。大学の研究室でも「モノ」をつくることはできたが、それで商売をするわけにはいかない。それで、徐々に大学から足が遠のいて行った。
僕が、最初に会社をつくったのは大学二年(1976年)のときだった。
「国際コンピュターアート展」をきっかけに知り合った4人でつくった、「パックスエレクトロニカ」という会社だ。「パックスロマーナ」(ローマによる平和)をもじったもので、これからの世界はエレクトロニクスによる平和が訪れるというイメージを社名にしたわけだ。
職場は僕の部屋という「ガレージ会社」だった。だいたい僕が「こんなものをつくろう」と発案して、エンジニアのメンバーが秋葉原で部品を買ってきて組み立てて、営業経験のあるメンバーが販売するという役割分担だった。もともとは、僕が個別にお願いしていたのだが、みんなで「会社にしてしまおう」という話になったのだ。
ガレージ会社の「限界」を痛感した
いろいろなものを作ったが、よく覚えているのはグラフィック・ディスプレイだ。
当時、大学や研究所にはコンピュータがあり、大型のディスプレイを備えていたが、これが非常に高額だった。おかしいな……と思った。僕が考えるに、ディスプレイに必要なシステムは非常にシンプルなものだった。そのシステムを組み上げるのに、そんなにお金はかからないはずなのだ。
そこで、僕は、システムの概略を伝えて、エンジニアのメンバーにディスプレイを作ってもらった。すると、既存のディスプレイと遜色のない機能を備えたものが、だいたい3万円の原価でできた。当時のディスプレイは100万円ほどしたが、10万円で売っても利益が出るものができたわけだ。
専門誌に広告を出すと、さまざまな研究所から注文が相次いだ。
たしか、200枚くらいは売れたはずだ。ちょっとした成功体験ではあった。しかし、200枚売れても、売上2000万円、利益は、広告費や人件費を除けば、1000万円を大きく下回っただろう。学生にとっては大きな金額ではあったが、所詮それだけの話でもあった。
僕は、ライターの仕事を通して、世界のコンピュータ・ビジネスの規模感がわかっていたから、パックスエレクトロニカの限界はわかった。気の合う仲間でモノを作って売るのは楽しかったが、「ガレージ会社」では世界に歯が立たない。そう思い知られた僕は、徐々にパックスエレクトロニカから気持ちが離れて行った。そして、アスキーを創業して忙しくなった頃、自分は全然行かなくなってしまった。