「過剰に演出された引退セレモニー」への違和感
こういったタイプの人って「私は怪我をしたから続けられない」と周りに説明できる理由を無意識に作りあげたり、周りの人にわかってもらえるようにストーリーを作ったりしている。
怪我を美談として見せることで、自分の心や、場合によっては現在の自分のポジションを守ろうとしている。「負けてしまう自分を見せたくない」、あるいは「自分の弱い姿を他人に見せたくない」といったふうにね。
そういった姿を見せることを「恥」だと思っている。
そして、「弱さ」を他人に見せないことを己の美学とする選手もいる。
要するに「引退するかっこいい理由」が欲しいだけである。
でも、よく考えればそもそも引退ってそんな華やかなものでもないし、演出されるようなストーリーもないはず。
アスリート人生には「現役」「引退」という区切りが存在する。
人間の生死にたとえて「現役」=「生」とすれば、引退はすなわち「死」を意味することになる。人間がいつ死ぬかわからないのと同じように、アスリートの引退もいつするかなんてのは本来はわからないはず。ましてや、そういった死に際や引退に本来演出などないはずだ。
そういった意味でも、「こじらせアスリート」は、アスリートとしての生き死にさえ、他人からの目線を意識して、演出している。