負けることは、恥ではない
実はこういった「こじらせアスリート」は、若い時期に良い指導者と出会えなかった選手や、ほとんど失敗をせずに自力で成功体験を積み重ねてしまった能力の高い選手の間でよく見られる。
ただ、こういった選手たちも、最初は勝ちも負けも含めて競技を楽しんでいたはずだった。でも、人より優れた能力や才能があるせいで、本来負けなければいけない瞬間にしっかり負けられなかったのだろうと思う。
そして、近くにいる人たちも、こういった勝ててしまう選手に対しては厳しいことは言いにくいし、言わない傾向がある。
だから、近くにいる指導者や信頼関係のある人間が「勝つことの価値」だけでなく「負けることの価値」を教えてあげなければ、表面的な結果だけでしか物事を捉えることができないまま成長してしまうことになる。
そして、その選手はいつの間にか、競技を続けていく中で当たり前に存在するはずの本当の「勝ち負けの価値」を学ぶことができず、自分にとって都合の良い感覚だけを残してしまう。周りもそれなりにちやほやするしね。
とどのつまりは「自分が勝つことが楽しい」というよりも「勝っている自分を見られるのが好きだ」になってしまう。
だから、こじらせアスリートっていうのは常に「恥」を外向きに抱えていて、自分にとって都合の悪い部分、弱い部分、本当の部分を外部に見せず、気がつかず、気づかないふりをする(気づかれているんですけどね)。
こうして「こじらせアスリート」ができあがる。
もちろん、勝ち負けを争ってスポーツをしているわけだから、「勝っている自分が好きだ」という感情は十分に理解できるし、勝つためにはそれがある程度必要なのもわかる。
でも、「競技が楽しい」という感情よりも、「勝っている自分が好きだ」という感情が圧倒してしまい、負けを受け入れられなくなってしまうのは、やっぱり不健康な気がする。いや、ある種の病気かもね。
スポーツや競技って基本は可能性への挑戦だよね。そういった基本があって初めて「勝ち負けの価値」が生まれてくる。
もし全力で挑戦して負けたのであれば、その経験から気づけることや学べることがある。「なぜ負けたのか?」ということに対して、本質的に考えられるようになる。
それが、結局「なぜ勝つことができるのか?」という話になって、負けることの真の意味や価値に目がいくようになる。
だから、勝つことと負けること、双方に意味と価値をしっかりと持たせることができれば、スポーツには本当に色々な要素や可能性があるってことがわかってくる。
スポーツ以外だってそうだ。
成功と失敗は常に表裏一体。むしろ一つ。
成功が正しい時もあるし、間違える原因になりうる時もある。
失敗が正しい時もあれば、正しくない時もある。
勝とうが負けようが自分に対して誠実であれば、そもそも勝ち負けに支配されることなんてなくなる。むしろ、自分自身の勝ち負けを選べるようになる。
それが本当の自由だ。
僕はそんなふうに思えるようになったから、これまで走ってこれたんだと思うね。
でも、僕もこじらせそうになったからこそ、今こう言えてんだけどね……。あしからず。
(本稿は、末續慎吾著『自由。──世界一過酷な競争の果てにたどり着いた哲学』の内容を抜粋・編集したものです)