バス停私たちは誰でも、自分たちの安心安全のために誰かを排除したいという「ホンネ」を暴走させかねない(写真はイメージです) Photo:PIXTA

渋谷女性殺害事件が関心を集める
今までとは異なる理由とは

 11月21日早朝、渋谷区で野宿をしていた60代の女性が、46歳の男性に撲殺された。一連の報道によると、女性は登録型派遣労働者として、スーパーなどで試食販売の仕事に従事していたが、2月以後はコロナ禍の影響で仕事と収入を失っていた。

 また、傷害致死容疑で逮捕された男性は、不登校や引きこもりを経験した後、現場近くの実家で家業を手伝いながら地域の美化ボランティアに参加するなど、一定の落ち着きのある日常生活を営んでいたという。犯行の動機は、「痛い目に遭わせれば、いなくなるだろう」ということであった。2週間以上が経過した現在も、世の中の関心は立ち消えていない。しかし筆者は、その関心に違和感を覚えている。

 もちろん、野宿者であるからといって、殺してよい理由はない。しかし、公園も地下街も歩道橋も、野宿者を決して歓迎していない。安全性を理由として追い出したり、そこで一時の休息を取ることもできないように謎のオブジェや謎の仕切りを設けたりし続けている。

 河川敷にブルーシートや段ボールで、仮の住まいを設けることも阻まれる。夏の暑さや冬の寒さをしのぐために、図書館などの公共施設が利用される場合もあるが、「悪臭を放つ」「多くの荷物を持っている」といった野宿者にありがちな事情は、飲酒や暴力とともに迷惑行為とされていることが多い。

 この世から居場所を失うたびに、人は少しずつ死に近づく。しかし、野宿者ではない人々にも、それぞれの事情がある。理由が何であれ、「今、自分の身近にそういう人にいてほしくない」という欲求はあり得る。

 毎年、決して「少ない」とは言えない数の野宿者襲撃事件が発生しているのだが、報道されて関心を集めることは非常に少ない。紛れもなく傷害や放火や殺人であるにもかかわらず、罪に値する刑に処せられることも少ない。