タクシー会社は、なんとなく大手がいいだろうという理由で日本交通を受けた。面接をしてくれた人事担当者の対応が人情味に溢れていた。

「過去についてはとやかく言いません。これで奥さんと復縁できるといいですねと言ってくれたんです。まだ、30代ぐらいの若い人だったけれど、いい人だったなぁ」

 ところが、日本交通に入社することを元妻に告げると、彼女はがくりと肩を落としてしまったのである。もしもP生命に入社してくれるなら復縁を考えてもいいと思っていたが、タクシードライバーになるなら復縁するつもりはない。元妻は、そう上野に宣告した。理由は、「友だちに言いにくいから」だった。

「その言葉を聞いて、僕はもう、この人とはいいやと思いましたね」

 元妻のマンションを出てアパートを借り、いまはもうなくなってしまった常盤台営業所に勤務するようになって以降、上野は元妻ともふたりの子供とも一度も会っていない。

大切なことだから

 気になるのは、築地で乗せた例の女性客のことである。

 彼女とこれからどうするのか上野に問いただしてみると、直情径行が売りの上野らしくない、優柔不断な答えが返ってきた。

「70歳を過ぎた母親が九州にひとりでいるし、実は、長期入院している病気の妹もいるんですよ。おふくろは年金を貰えるようになったら帰って来いって言うし、お袋が逝った後は、僕が妹の面倒を見なければならなくなるし……。いろんなことが引っかかっているんですよね」

 乗務員仲間の意見は、九州に帰った方がいいという意見と、彼女と早く結婚した方がいいという意見が半々だという。

「うちの営業所の乗務員はみんな仲がよくて、いまは本当に楽しいですね。タクシー会社の営業所としては、日本でナンバーワンじゃないかな。ここには、人情があるんです」

 上野は、外資系企業のある同期生のことを話し始めた。慶應大学出身のその男は同期のトップを走っていたが、「使える奴は離さない。使えない奴はたとえ同期でも切って捨てる」と公言して憚らなかったという。

「彼はね、『俺は人格を捨てたんだ』といつも言っていました。外資ではそのくらいやらないと生き残れないんですよ」

 外資で生き残るには人格を捨てねばならず、タクシーの世界には人情があるというのは、いささか図式的な気がする。

「たしかにそうかもしれないけれど、たとえば六本木ヒルズから、若いビジネスマンを乗せたりすると、『ほら、早く車出せよ』なんて、乗務員をあからさまに蔑んだ口の利き方をする人がいるんです。IT系のベンチャー企業なのかな。昔の僕だったら一発ガツンとやったところだけど、いまはむしろ可哀想だなと思いますよ。彼が悪いわけじゃなくて、仕事が悪いんです。仕事が人格を変えさせるんです。強くなれ強くなれと言う人がいるけれど、人間は強くなんてなれない。強くなるんじゃなくて、人格を変えるんですよ。もしも最初の外資系企業の仕事が人格を変えさせるような仕事じゃなかったら、僕は会社を辞めることも、家族と別れることもなかったと思います」

 人格を変えることのできた人間が強い人間なのか、変えられなかった人間が弱い人間なのか、それはわからない。しかし、いまの上野が明るく、そして楽しそうに生きていることは間違いない。いや、楽しそうというよりも、気楽そうだと言うべきかもしれない。

東京タクシードライバー『東京タクシードライバー』
山田清機
定価792円
(朝日文庫)

「もう少しよく考えてから行動する面が僕にあれば、違う人生があったのかもしれませんよね。あのバルコニーつきの家で家族に囲まれて、いまごろBMWなんか乗っていたのかもしれない。でも、僕がいろんなことをやっちゃったおかげで、たくさんのドラマが生まれている。波瀾万丈だけど、これもひとつの生き方としてよかったのかなと思うんですよ。人生捨てたもんじゃないなって」

 例の彼女はこれからのことについて、「大切なことだから、九州のお母さんとよく相談して決めてほしい」と言うそうだ。なぜかそう言う度に寂しそうな顔をするのだと、上野は訝しがる。ひょっとすると彼女は、あの不倫相手の上司にも同じセリフを言ったのかもしれない。大切なことだから、奥さんとよく相談して決めてほしいと。

 上野に仕事のミスをなすりつけた上司は、あの出来事の後、地方の営業所をたらい回しにされて、行く先々でトラブルを起こしたという噂である。その先どうなったかは、上野も知らない。

AERA dot.より転載