文章術を説く本は山ほどありますが、プロのライターになるための教科書は存在しません。ゆえに、ほとんどの書き手が自己流で仕事をし、その技術は継承もされなければ向上もしないという悪循環に陥っています。こうした状況に強い危機感を抱いたのが、世界的ベストセラー『嫌われる勇気』の共著者で、日本トップクラスのライターである古賀史健氏。古賀氏は書くことの大前提にある「考える技術」「考えるためのフレームワーク」さえ身につければ、誰もが素晴らしい書き手になれると断言します。古賀氏の熱と思考と技術のすべてを詰め込んだ新著『取材・執筆・推敲』は、まさに「書く人の教科書」! 本連載では同書冒頭の『ガイダンス──ライターは「書く人」なのか』を5回に分けて紹介していきます。
ライターとはなにか。
なにを書く人のことを、ライターと呼ぶのか。
ガイダンスのはじまりは、この問いから考えていきたい。
字義どおりに考えるなら、write(書く)に行為者をあらわす接尾辞(-er)をつけたライターは、「書く人」である。しかし、職業としての「書く人」たちを挙げていけば、ほかにも大勢いる。小説家、詩人、エッセイスト、コラムニスト。いずれも等しく「書く人」だ。けれど、彼らをひとまとめにライターと呼ぶことには――少なくともカタカナ化した日本語でそう呼ぶことには――かなりの違和感が残る。詩人とライターの活動領域は、あきらかに違っている。
では、アウトプットの形式ごとに考えればいいのか。
つまり、「小説を書くのが小説家で、詩を書くのが詩人で、エッセイを書くのがエッセイストで」と考えていけば、ライターの正体もわかるのか。
残念ながら、わからない。詩人や小説家と違ってライターは、なにを書く人のことをそう呼ぶのか、対象がきわめてあいまいなのだ。無論、「小説のような創作物ではなく、取材に基づく記事全般を書くのがライターだ」とする考え方はあるだろう。しかしそれだと、新聞記者やジャーナリストとの違いがわからなくなる。ノンフィクション作家との境界線もまた、不鮮明になる。
こうしてしばしば語られるのが、「雑文家(ざつぶんか)」という肩書きだ。
雑貨や雑収入ということばからわかるように、「雑」には「その他」の意味がある。つまり雑文とは、小説でも詩でもエッセイでもない「その他の文章」とでも呼ぶべき、便利なことばだ。思えばぼくも、自分のことを「小説家でもエッセイストでもないし、記者というのも違うはずだから、とりあえずライターと名乗っておこう」くらいに考えていた時期が長かった。住所不定の雑文書きとして、自分をカテゴライズしていた。
しかし、ライターの仕事に就いてから10年、いや15年ほど経ったころだろうか。その思いに変化が生じてくる。
ライターの仕事は、おもしろい。おそらく自分は、この先ずっとライターの仕事を続け、ライターを名乗り続ける。ライターはそれだけ奥が深い仕事だし、社会的にもおおきな価値を持つ仕事だ。みずからを卑下(ひげ)し、自嘲(じちょう)するように「雑文家」などと呼ぶ必要はないし、誰かに呼ばせてもいけない。ライターはなにをする人なのか、その定義を、あるいは価値を、もっと根本から見つめなおして明確に言語化しよう。そんなふうに考えるようになった。
あらためて考える。ライターとは、「書く人」なのか?
字面(じづら)にとらわれすぎて、なにか大切なことを見失っていないだろうか?
たとえば映画監督という職業。彼らは一般に、映画を「撮る人」だと考えられている。「あの監督が新作を撮ったらしい」「あの人はもう何年も映画を撮っていない」といった会話は、ふつうに交わされている。
しかし、実際に監督みずからがカメラを構えて「撮る」ことは、ほとんどない。撮影するのは当然、カメラマンだ。照明も、録音も、音楽も、編集も、特殊効果も、場合によっては脚本さえも、映画にまつわる大半は監督自身の仕事ではない。監督たちは映画を「撮って」いるのではなく、「つくって」いるのだ。
あるいは、写真家たち。彼らの仕事は「撮ること」だろうか?
それも違うだろう。彼らはカメラという道具を使って、自分の理想とする絵を「つくって」いる。レンズを選び、画角(がかく)を決め、構図を定め、絞(しぼ)り値(ち)やシャッタースピードを選択する。色や光を自在にコントロール(現像)する。これらはすべて「つくる」行為だ。だからこそ作品なのだし、スマートフォンの誕生以降、「撮る」だけの人ならどこにでもいる。
画家にしても、ミュージシャンにしても同じである。「描くこと」や「演奏すること」よりも深いところには、「つくる」としか言えないなにかが確実にある。
じゃあライターの場合は、どうだろうか?
われわれは、「書くこと」を仕事としているのだろうか?
違うはずだ。映画監督が映画をつくるように、ミュージシャンが音楽と演奏空間をつくるように、小説家が物語世界をつくるように、ライターもなにかを「つくって」いる。書くことは、その手段でしかない。
ライターという肩書きにつきまとう「文章」や「原稿」のことばを一旦、きれいに取り払おう。書くことを通じて自分がなにをやろうとしているのか、もう一度考えてみよう。
われわれは、書く人(ライター)である以前に、つくる人(クリエイター)なのだ。
カタカナの「クリエイター」ということばは、あまり使いたくない。輪郭(りんかく)がぼやけてしまわないよう、「つくる人」だと強く念を押したい。ぼくは、この「つくる人」との自己認識が、書くものの姿を変えていくと思っている。
(次回に続く)