文章術を説く本は山ほどありますが、プロのライターになるための教科書は存在しません。ゆえに、ほとんどの書き手が自己流で仕事をし、その技術は継承もされなければ向上もしないという悪循環に陥っています。こうした状況に強い危機感を抱いたのが、世界的ベストセラー『嫌われる勇気』の共著者で、日本トップクラスのライターである古賀史健氏。古賀氏は書くことの大前提にある「考える技術」「考えるためのフレームワーク」さえ身につければ、誰もが素晴らしい書き手になれると断言します。古賀氏の熱と思考と技術のすべてを詰め込んだ新著『取材・執筆・推敲』は、まさに「書く人の教科書」! 本連載では同書冒頭の『ガイダンス──ライターは「書く人」なのか』を5回に分けて紹介していきます。今回は、コンテンツに不可欠な要素について。
書くのではなく、コンテンツをつくる
(前回より続く)
それではいったい、ライターはなにをつくっているのか。
小説家が小説をつくり、詩人が詩をつくり、映画監督が映画をつくるのだとした場合、われわれライターはなにをつくっているのか。
いちばんおおきな括(くく)りでいえば、「コンテンツ」だ。
ライターは、ただ文章を書いているのではない。書くことを通じて、コンテンツをつくっている。同じ書くでも、現代詩や純文学のような形式をとらない、けれども「コンテンツ」としか名づけようのないなにかを、ライターはつくっている。ここから議論を進めていこう。
最初にやるべきは、コンテンツということばの定義づけである。
ぼくは「エンターテイン(お客さんをたのしませること)を目的につくられたもの」は、すべてコンテンツだと思っている。
お客さんの存在を前提にしていること。そして、お客さんの「たのしみ」や「よろこび」に主眼が置かれていること。つまりは、自分よりもお客さんを優先していること。この原則を守ってつくられたものは、すべてコンテンツだ。大衆文学、エッセイ、コラム、ハリウッド映画、ポピュラーミュージック、ゲームソフト、あるいはナイキの限定版スニーカーからビッグマックまで。ぼくにとってはいずれもコンテンツであり、ライターもまた同じ視点でサービスを提供している。
たとえば、事実だけを列挙した、新商品発売のプレスリリース。これは情報伝達を目的とした文書ではあっても、コンテンツではない。
しかしリリース文のなかに、開発担当者のコメントが添(そ)えられる。これで少し、コンテンツに近づく。そのコメントが、いきいきとした、喜びと興奮に満ちたものだったとする。新商品が生まれるまでの経緯、試作段階での苦労、突破口となった改善ポイントまで、紆余曲折(うよきょくせつ)の開発ストーリーが語られていたとする。開発担当者が喜々(きき)としてしゃべっている写真、試作品の写真、図やグラフ、さまざまなビジュアルが添えられていたとする。こうなるともう、完全にコンテンツだ。ひとりの読者(お客さん)として、十分にたのしめる読みものだ。
もっと極端な話をしよう。
ここに1枚のチューイングガムがあったとする。これはコンテンツではない。ただの駄菓子だ。しかしパッケージの表面に、ドラえもんの絵が描(えが)かれる。そうなると少し、コンテンツの要素が加わる。のび太が描かれたパッケージ、しずかちゃんが描かれたパッケージ、ジャイアンが描かれたパッケージ、スネ夫が描かれたパッケージ。5枚のガムを並べると、1枚の絵になる。この組み合わせはもう、完全にコンテンツだ。
コンテンツ化のポイントは、ストーリーやキャラクターの有無(うむ)ではない。
分岐点となるのは、その根底に「エンターテインの精神が流れているか」、それだけである。シリアスな内容であっても、社会的メッセージを含んだものであっても、エンターテインの精神は変わらない。いいものを読んだ、気持ちのいいものに触れた、いい出会いだった、と思ってもらえてこそコンテンツなのだ。
読者(お客さん)はコンテンツに、ただの情報を求めているのではない。続きを読まずにはいられない、あの興奮。ページをめくる手が止まらない、あの没頭。読み終えたあともしばらく「その世界」から抜け出せなくなる、あの余韻(よいん)。読む前の自分と読んだ後の自分とのあいだに、わずかながらの変化を感じる、あの清々(すがすが)しさ。こうした「読書体験」としか名づけようのないなにかを求め、読者はコンテンツを読んでいる。
じゃあ、どうすれば「文章を書く」だけのライターから、「コンテンツをつくる」ライターへのジャンプができるのか。
その鍵になるのが、「編集」という概念であり、プロセスである。
(次回に続く)