時にはスマホを手放して、“非効率”に

 コロナ禍で思い通りの生活が制限され、我慢を強いられるようになってから2年近くになろうとしています。こうした中、出張業務の減少をきっかけに、実家の農業に手を染めることになりました。まだ、1年生です。教わることも、覚えることも、山ほどあります。

 トラクターに乗り、耕作放棄している田んぼの草と戦っていると、これほど非合理的な仕事もないだろうと思います。炎天下の農作業は燃料代すら出ないし、効率うんぬんは全くの度外視です。また、高齢の母親を手伝いながらの果樹園作業は、天候によっては収穫目前にダメになる場合もあります。害獣による被害もありますが、2本の足で歩く人間の手により根こそぎやられる被害ほど怖いものはありません。もうからないし、やりきれない。まさに、ないない尽くしで不安です。

 そこには、いつも誰かとつながっているスマートフォン的な便利さは全くありません。理不尽な天候に泣きたい思いになったとしても、クレームをつける相手さえいないのです。しかし、一見孤独にも見える時間ですが、クタクタになるまで作業をしてみると、なぜか晴れやかな気持ちになっているのが不思議です。不便や不自由が逆に心の不安を和らげて、コントロールできているのかもしれません。

 自らの不安や不満で頭の中がいっぱいになった状態で便利な世の中に慣れきってしまうと、我慢が利かずささいなミスも許せず理不尽なクレームをつけてしまう加害者になってしまうこともあるでしょう。今の便利な世の中は「カスハラ」の被害者になる可能性と同時に、誰しもがクレーマー(加害者)になってしまうかもしれない可能性もはらんでいるといえるからです。

 形のない不安に、“心のかじ”を取られないように。便利さを手放しあえて非効率なことをやってみるのも、時にはいいのかもしれません。