忠兵衛が創業した
持ち下りの商い
伊藤忠の歴史が始まったのは安政5(1858)年。この年、伊藤忠兵衛は2名の従業員を指揮して「持ち下り」の商いを始めた。
「持ち下りとは商品携帯出張卸販売のことで、小売行商とは違う」(『伊藤忠商事100年』)。
持ち下りはメーカーと小売りの間に介在する卸売りであり、商社活動だ。
忠兵衛の実家は近在に「耳付物」と呼ぶ、さまざまな繊維製品を売る小売店だった。小売りは兄の長兵衛が継いだので、次男の忠兵衛は自ら卸売りの商売を始めたのである。
持ち下り業が発展した結果が伊藤忠、丸紅の2社で、両社は1858年を創業の年と定め、忠兵衛を社祖としている。
忠兵衛が生まれたのは天保13(1842)年7月2日(新暦では8月7日)。住所は滋賀県犬上郡豊郷村八目。豊郷村は琵琶湖の東部、湖東地区にあり、近江商人を輩出した土地だ。
父は五代目伊藤長兵衛、母はやゑ。生家は「紅長」の屋号を持つ繊維製品の小売で地主。忠兵衛は次男だった。
前記社史には「安政五(1858)年初代は15歳。元服して忠兵衛以時(もちとき)をなのり、同年5月近江麻布の持ち下り業をはじめた(注 原文はカタカナ)」とある。元服を済ませた一人前の大人として仕事を始めた。彼より一歳年上の明治の元勲、伊藤博文は安政四年に松下村塾に入門。翌年には長崎へ留学して、志士としての活動を始めている。
現在から考えると15歳は少年のように思えるけれど、忠兵衛も伊藤博文も元服を済ませた成人として幕末を駆け抜けた。
忠兵衛が創業した安政五年、江戸幕府はアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスの5カ国と修好通商条約を結び、開国に踏み切った。
大老、井伊直弼は幕府の施策に反対する大名、志士たちへの弾圧(安政の大獄)を始めている。井伊直弼は彦根藩の当主。忠兵衛にとっては領主である。
忠兵衛が持ち下りを始めたのは、実家の仕事は兄の長兵衛が継ぐからだ。忠兵衛は自分で起業して生きていくことを決め、卸売りを選んだのだろう。
そして、卸売りであれば店舗を持つ必要はないから少ない資本でも起業できる。また、さまざまな商品を扱うこともできる。
専門商品を売る店舗では、決まった商品を売るしかない。たとえば呉服の小売店舗を開いたとする。草履や袋物なら付属品として店舗に並べることはできる。しかし、呉服の隣に食品や乾物を並べるわけにはいかない。
一方、卸売りであれば、客の要望で可能な限り、商品を増やしていくことができる。時代が変化すれば、客の需要も変わる。卸売りであれば機敏に新商品に目を付けて、それを売り込むことができる。
持ち下りとは客の要望に応えなくてはならないマーケットインの業態で、しかも時代の急変にも対応しなくてはならない。時代の変化を察知して、自ら変わることができなければ存続できない業態だ。
その点は現在の総合商社と同じものともいえる。