日本の法はそもそも
厳密な運用を想定していない

 明治時代、西洋に追いつけ追い越せと必死になっていた頃、外国人に対して裁判する権利がない(治外法権)という安政の不平等条約を改正することは、日本人と日本政府にとって悲願であった。裁判権の自主性を回復するには、裁判制度および裁判の基準となる法律を整備する必要があったのだ。そこで、急ごしらえで作ったのが、これらの法典である。法典は、“立派なもの”であることが重要なのであって、内容が実情にあっているかどうか(使えるか)は二の次であった。

 しかしながら、実際に導入してしまえば、法典は社会の規範として機能し始める(「作ったものの、使っていません」ということでは列強から一人前の国として認めてもらえない)。そこで、実態とは大きなギャップがあり、額面通りに運用できない法はそれとして、予め現実の事態に妥協することが想定されていたのである。

「道徳や法の当為と、人間の精神や社会生活の現実とのあいだには、絶対的対立者のあいだの緊張関係はなく、本来的に両者の間の妥協が予定されている。したがって現実への妥協は、「なしくずし」に、大した抵抗なしに行われる。そうして、そのような現実との妥協への型態こそが、「融通性のある」態度として高く評価されるのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)

 法の定める「建前」と、実際に行われている「本音」の間を上手に取り持ち、厳密には法的に問題のある行為であっても、形式、体裁、大義名分などを巧みに整えて正当化する「融通性のある行為」こそが求められたのである。

 このような歴史的背景のもとに、日本人は法と向き合ってきたのである。下手に法に近づくと火傷をしかねないのだから、融通性のある者以外は法に近寄りたがらないのも仕方がない。