SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それ故、この世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。「承認欲求」とは果たして何なのか? 現代社会に蠢く新たな病について考察する(本編は書籍には収録されなかった番外編です)。
厳しすぎる先生との衝撃の出会い
先生を目指すことにした、という知り合いの話を聞いて、私は驚いた。
かなり大手の一般企業に勤めていたからだ。それでもなお先生を目指そうと思ったのは、やはり、誰かの人生を応援したいとか、そういう思いがあったからなのだろうか。すごいなと妙に感心してしまう。けれどきっと彼なら素晴らしい先生になれるだろうと思う。
私も先生に憧れていたときがあった。否、未だにちょっと憧れている。アルバイトで、家庭教師や進路アドバイザーをやってみて、自分の経験が活かせること、進路に悩む学生達が感謝してくれることが嬉しくて、就活中に塾講師になろうかと考えて、予備校チェーンに面接を受けに行ったこともあった。そこでキラキラと眼を輝かせ、生徒が合格した話を情熱的に語る先生達が本当に格好良く見えて、真剣に先生になって将来、私塾を自宅でやるのも悪くないなあ、と思ったりもした。
けれど結局、先生の道へ足を踏み出すことができなかったのは、ある先生への大きすぎる憧れがあったからだった。私はどう頑張ってもその壁を越えられないだろうと確信してしまったのだ。
高校一年の、夏。
「お嬢さん、大学行きたいっておっしゃってます?」
「……は、はい。行きたがっている……みたいですけれども」
「そうですか」
「……」
「このままじゃ大学、行けないでしょうね」
「……え?」
「(成績表を見て)うーん。やっぱりこのままじゃ大学、無理でしょうね」
「……あ、あの」
「はっきり言ってわたくし、お嬢さんは寝てるイメージしかありません。ご自宅で勉強はなさってます?」
「はい、図書館などに行って……しているようですけれど」
「家でいくら勉強してても授業寝てたら意味ありませんからね」
「……」
「進学したいのでしたらちゃんと授業を受けるようにお伝えください」
「はい……」
「わたくしのお話は以上です。なにかご質問は?」
「いえ……ありません」
「それでは今日の二者面談は以上です。ありがとうございました」
「ありがとう……ございました……」
その間、わずか5分。
ニコリとも、しない。
T先生。仮にその人をそう呼ぶ。
私の母との間で行われた、この強烈な二者面談が、私の人生を変えることになった。