◆倒錯した労働観
◇「シット・ジョブ」

 BSJをめぐる議論でもう一つ重要な論点は「シット・ジョブ」だ。

「シット・ジョブ」はいわゆる「3K労働」にあたる。劣悪な労働環境で社会的地位も高くない。

『ブルシット・ジョブ』での一つの証言にこのようなものがある。

「仕事をして得られるお金の総額とその仕事がどれだけ役に立つのかということは、ほとんどパーフェクトに反比例している」。

 この社会的価値と市場価値の乖離はなぜ生じるのだろうか。資本主義の労働観は中世後期の北部ヨーロッパにおける、労働は罰であり苦痛、といったキリスト教的伝統などを引き継いで形成されているが、著者は「シット・ジョブ」とBSJの力学の背景にある発想を次のようにまとめている。

 仕事はそれだけで価値がある。無意味で苦痛であればあるほど価値がある。人間を一人前の人間にするものであり、それはモラルなのだ。

 なんらかの無から創造にかかわるものこそが労働であり、ケアにかかわる仕事は本来、それ自体が報いであり(やりがいという報いがえられる)、それを支えるものであって本来無償のものである。

「その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる」。

 この倒錯は見過ごされ、さらにわたしたちにそうであるべきだと観念させるのだ。

◇労働から解放された社会を想像してみる

 では、最後にBSJの増殖を乗り越える道筋について考えてみたい。

 グレーバーは、具体的提案で未来を予言することに細心の注意を払いつつも、普遍的ベーシック・インカムを念頭に置いた労働から解放された人間のあり方を想像することを呼びかける。

 だれもやりたくない仕事は賃金を上げなければならず、経営者は人を雇わなくて済むようになるべく自動化しようとするだろう。これまで市場化されていた多くの生産やサービスを、人々が自由な時間でおこなうようになり、徐々に賃労働が消えていく。

 最後に著者がグレーバーのヴィジョンについて「いちばん魅力的」と述べるのは次のようなところだ。