症状が改善しないのに
通院を続けていた謎

 T氏が現場の心療内科クリニックに通院していたのは、2017年から2021年末にかけての約5年間だった。通院回数は100回以上に及んだというが、1年当たり20回、1カ月当たり1~2回となる。通院頻度としては一般的だ。医師に対して語っていた症状は不眠や倦怠(けんたい)感で、向精神薬の処方を受けていたが、改善せず不満を漏らしていたようだ。

 クリニックは、就労している人々や近い将来の復職や再就職が見込まれる人々を主対象としており、リワーク(就労復帰)プログラムにも注力していた。

 T氏が「場違い」感を抱いていたとしても不思議ではないが、大阪府警によれば、クリニック側で何らかのミスマッチや行動面の問題を把握していた形跡はない。ともあれ、T氏の人生の終わりまで、クリニックは社会との細い絆となった。

 働く人々のメンタルヘルスは、重要な社会課題だ。一般財団法人労務行政研究所が2017年に行った調査によれば、企業の99.5%が何らかのメンタルヘルス対策を行っており、86.2%には欠勤・休職中の社員がいる。そして概ね半数は、長期休職または退職という成り行きをたどると認識されている。

生活保護があっても、北新地ビル放火殺人事件を止められなかった理由現場付近の供花

 患者にとってのリワークプログラムは、確実な就労を約束するわけではなく、希望につながっているかもしれない細い糸のようなものだ。T氏が自らの生命と同時に焼き切ったのは、その時クリニックにいた医師やスタッフや患者たちの生命や健康だけではなく、関係者全員の希望の糸でもあった。

「せめて、生活保護が利用されていれば」という筆者の思いは、多くの人々の思いでもあろう。むろん、生活保護は万能ではない。京都アニメーション放火殺人事件の抑止力になれなかったという「前例」もある。

 社会生活の強力なツールである現金が給付されるものの、現在の生活保護の水準では十分とは言えない。対人援助としての生活保護の効果は、福祉事務所やケースワーカーに左右される。それでも、各個人には生きる希望をもたらし、社会からは絶望を減らす制度であるはずだ。生活保護には、まだ発見されていない可能性が数多く隠されている。