職歴も「刑務所運」も
困窮と孤立を救えなかった謎

 2019年の政府統計「家庭の生活実態及び生活意識に関する調査」によれば、世帯主の最終学歴が高校卒業以上の世帯は、生活保護世帯では54.4%にとどまるが、全世帯では87.3%に達している。「義務教育以後の学歴がない」という背景は、貧困に結びつきやすいのだ。

 しかし、「工業高校卒、板金工としての職業能力あり、50歳近くまで安定した就労を続けた実績あり」というT氏の経歴から、「生活保護しかない」という状況を想像することは難しい。

 T氏には、離婚(2008年)と理由の見当たらない退職、元妻らとの無理心中企図と長男に対する殺人未遂(2011年)、4年間の刑務所生活というネガティブな経歴もある。刑務所入所歴は、その後の人生を幸福にしない可能性が高い。しかしT氏の“刑務所運”は、極めて良好だった。

 一部報道によれば、T氏が4年間を過ごした刑務所は、島根県浜田市にある官民共同型刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」。生活全体を学びの場とする回復共同体の中で、受刑者たちは自らの犯罪に向き合い、その背景となった自らの価値観や行動パターンを変化させる認知行動療法に取り組む。運営の考え方の基本は、各個人が社会の一員であることを意識して行為の責任を引き受けられるように成長する修復的司法だ。

 所内で行われる作業は、ビジネスの基礎やICT技術をはじめ、出所後に生きていくためのスキルを確実に身に付けられる内容だ。出所者たちには同窓会のような場もあり、孤立しにくい。その様子は、坂上香氏の書籍『プリズン・サークル』(岩波書店)および同名のドキュメンタリー映画に克明に示されている。処遇の効果は、再度の刑務所入所率(再入率)の低さに示されている。データがやや古いが、2013年、日本の全刑務所での再入率が18.1%だったのに対し、「島根あさひ」では10.6%だった。

「島根あさひ」に送られる受刑者は、確実な社会復帰が見込まれる人々である。豊かな自然環境の中で落ち着いた生活を送り、対人関係スキルや職業能力を身に付け、人とつながり、出所後の生活にソフトランディングする配慮を受けつつ出所する。T氏も、そういう処遇を受けたようだ。それでも、事件は起こった。