一方、残った勝長寿院と永福寺だが、二つとも現存はしていない。勝長寿院は文治(ぶんじ)元年(1185年)、頼朝が父義朝の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために鶴岡八幡宮の近くに建立した寺。のちに火災で焼失した。永福寺は、頼朝が文治五年に行った奥州平泉攻めの後で建立した寺。鶴岡八幡宮の北東方向(つまり鬼門)にあったところから、頼朝の平泉攻めで滅ぼされた弟義経や奥州藤原氏の怨霊封じと鎮魂が目的だったと見られている。こちらものちに焼失した。

 さて頼朝は、こうした本拠地の鎌倉だけでなく、鎌倉から見ればかなり遠方の、飛騨山中の奥深くに巨大な寺院を建立していたという伝承があることをご存じだろうか。それこそが、現在の岐阜県下呂市御厩野(みまやのの)に一七世紀後半まで存在したとされる、天台宗・鳳慈尾山大威徳寺(ほうじびざんだいいとくじ)である。なぜ頼朝はそんな人も通わぬ山中に巨大寺院を建てる必要があったのだろうか。

それは、三つの国が交わる所に存在した

 岐阜県はその昔、北部を飛騨国、南部を美濃国と南北二つに行政区分されていた。その国境(くにざかい)にあって、しかも東が信濃国(長野県)に隣接するという、いわゆる三国境(さかい)の山中に存在したのが、大威徳寺である。

 この大威徳寺、頼朝が鎌倉に幕府を開いたとき、頼朝の命を受けた永雅上人(えいがしょうにん)(人物像は未詳)が創建したという伝承が地元にある。そのことを書物に記録したのが、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の時代に飛騨高山の代官を務めた長谷川忠崇(はせがわただたか)という人物。忠崇は高山に赴任(ふにん)して飛騨地方の歴史をまとめた本『飛州志(ひしゅうし)』を著(あらわ)しており、その中に頼朝が創建した寺であるとの地元の伝承を書きとめていた。建立時期だが、建久(けんきゅう)五~六年(1194~95年)頃と見られている。

実際に住んでいた僧侶が書き残す

 寺院が存在した頃の様子を伝える史料としては、この大威徳寺に実際に住んでいたこともある多聞坊慶俊(たもんぼうけいしゅん)という僧侶が、天正十五年(1587年)に経典(きょうてん)の裏に書き残したものがある。それには、

「大威徳寺の本尊(ほんぞん)は大威徳明王(みょうおう)(筆者注=五大明王の一つ)。鎮守(ちんじゅ)は伊豆、箱根、熊野、白山(はくさん)の四神。その伽藍(がらん)(同=寺院の建物)はといえば、本堂のほかに地蔵堂、大黒堂(だいこくどう)、講堂、拝殿(はいでん)、鐘楼(しょうろう)、仁王(におう)堂などがあり、さらに周辺に東坊(ひがしのぼう)、多聞坊、聖林坊(せいりんぼう)、竹林坊(ちくりんぼう)、 西坊(にしのぼう)など十二の坊院(同=僧侶の住まい)があった」と記されていた。