ここまでに結構な労力を費やしてきたのに、進捗(しんちょく)が芳しくなかった。「では、仕切り直しで」なんてスパッと切り替えることなどできやしないのでないか。「ちょこちょこっと修正するくらいで、このまま進んでもいいんじゃいの?」とグズグズするのが人情だ。未練がましいのである。相撲由来の言葉なのに、日本人は「仕切り直し下手」のように思える。

 他のスポーツでも、「両エースが一歩も譲らず延長戦に入っても0‐0。翌日は『仕切り直し』の再試合」なんて場合、周囲は「まれに見る投手戦だ」と興奮するものの、当のピッチャーはたまったものではない。「とっとと点を取れってんだよ。また1回からやり直しじゃないか」などと嘆いているはずである。

 将棋の千日手の再対局なんかも目がくらみそうだ。棋士が死力を尽くした将棋が仕切り直し。「また初手からか」と天を仰ぐのではないか。

 私も仕切り直しを憎悪している。

 半年かけて書いた長編小説がボツになったとき、この恐ろしい言葉を編集者からかけられた。「基本はこのままのセンで、問題部分を直せばいいじゃん」と粘ったもののダメだった。

 これが相撲ならば、編集者を土俵外へ押し出すくらいの気概はあった。しかし原稿用紙500枚の長編を1枚目から書き直す労苦を思うと戦意喪失。腰の力が抜けたものである。

 同業者の多くは仕切り直し恐怖症である。知人はそれを重ね過ぎて、当初の青春ファンタジー小説が最後には官能バイオレンス小説になった。どこをどうされるとそうなるのか。

 使い方の失敗例に笑ったこともある。友人の夫婦げんかで、妻の小言にうんざりした彼は「今日はもう遅いから、仕切り直しにしよう」とかぶりを振った。すると妻は「あんた、明日も続けようっての? 男らしくないわね!」と目尻をつり上げた。彼は呼吸を合わせてさっさと投げ飛ばされるべきだった。つまりは、潔く負けを認めることが最善手だった。