学校の子どもたちと社会との「橋渡し」になる決意
小山さんは、なぜ教師の仕事に熱中するのか。その理由の一端に、高校1年生のときに宮城県気仙沼市で被災した東日本大震災の記憶があった。
地面が恐ろしいほど揺れたのは、高校からの下校途中だった。自宅は海の近くにあった。小山さんは「津波が来る」と思った。すぐにメールで家族の安全を確認した。幸い、みんなが無事であることを確認できたので、次に自分自身の安全について考えた。すると、真っ先に気持ちが向いたのは、校門をさっき出たばかりの高校だった。切羽詰まった状況の中でそのような気持ちになったということは、自分が学校を心のよりどころにしていた証だった。大切な友だちや先生たちがいて、やりたいことを実現できる場所として高校があることを、小山さんは幸せに感じた。高校に戻った小山さんは、押し寄せてくる避難者を受け入れる準備に奔走した。
小山さんが宮城教育大学に進学し、本格的に教師をめざすようになった背景に、「震災のような大きなできごとがあったときでも、学校が子どもたちの心のよりどころになってほしい」という思いがあった。大学では、被災地の中学校の運動会を研究している教員のゼミを選んだ。そのゼミの先生が、「卒業する前に神戸大学附属特別支援学校を見ておくといい」と助言してくれた。修業のつもりで10日間ほど神戸にやってきたのが、現在働いている職場との出合いだった。
神戸大学附属特別支援学校でボランティアをした経験は、小山さんにとって人生の転機となった。子どもと教師それぞれの主体性が日常的に問われる職場に圧倒された。毎日のように、「あの場面であなたは何を感じ、何を考えて、子どもに対してふるまったのか?」と問われ、「子どもを教える」という教師の役割に安住できない環境の中で、自分を振り返るきっかけをたくさん与えられた。
すると、それまでいろいろなところで感じてきた違和感や大切にしていた思いが、だんだんと言葉になっていった。子どもの頃、毎日、小学校までの片道30分の道のりを一緒に通った障がいのある友だちが、中学から特別支援教育を受けることになり、離ればなれになってしまったときの違和感、大学の実習先で、嫌がる子どもたちを無理やり従わせようとする現場を見たときの違和感……。それらは、いのちが粗末にされていることに対する違和感だった。過酷だった震災の経験で得たものも、煎じ詰めれば、いのちを大切にして生きていこうという決意だったということもわかった。
そして、子どもが安心して過ごす中でのびのびと成長できる環境が、実は当たり前ではないという現実を強く意識するようになった。子ども中心でなければならない学校でさえ、子どもが大切にされていない現実がある。規則や枠組みに子どもを従わせることに慣れてしまうと、教員は子どもの心が見えなくなってしまう。それを変えていきたいと思った。鍵になるのは教員が感じる小さな違和感だ。その違和感を大切にする教育現場をつくらなければいけないと感じた。
卒業論文は「東日本大震災を経験した体育教師の信念」というテーマで書き、自分を成長させたいという一心で神戸大学附属特別支援学校の採用試験を受験した。
「卒論のためのインタビューをした被災地の先生たちは、子どもたちにとって大切なことは何かということを一生懸命考えて、従来とは異なるアプローチで教育実践をしていました。震災によって、先例とか規則とかいった枠組みが機能しなくなったとき、子どもをていねいに見るまなざしが生まれたんだろうと思うのです」
このように話す小山さんの視線の先には、自分自身の中にある枠組みを見直し続け、目の前にいる子どもたちと社会との「橋渡し」になろうとする挑戦がある。