学生をはじめとした若者たち(Z世代)はダイバーシティ&インクルージョンの意識が強くなっていると言われている。一方、先行き不透明な社会への不安感を持つ学生も多い。企業・団体はダイバーシティ&インクルージョンを理解したうえで、そうした若年層をどのように受け入れていくべきなのだろう。神戸大学で教鞭を執る津田英二教授が、学生たちのリアルな声を拾い上げ、社会の在り方を考える“キャンパス・インクルージョン”――その連載第3回をお届けする。(ダイヤモンド社 人材開発編集部)
* 連載第1回 「生きづらさを抱える“やさしい若者”に、企業はどう向き合えばよいか」
* 連載第2回 ある社会人学生の“自由な学び”から、私が気づいたいくつかのこと
学生の「本気の学び」に必要な経験や出会いとは?
おそらく、現在の学生の多くは、私が学生だった頃に比べて、格段に忙しい。生活のためにアルバイトに勤しまなければならない学生、就職の準備のためにダブルスクールをしている学生、在学中に起業する学生など、忙しさも多様だ。その一方で、多くの学生に共通しているのは「授業のために忙しくなっている」という点だ。授業の出欠や成績は、年々厳しい管理を求められるようになってきている。
もちろん、理念どおりに、質の高い授業によって学生たちが充実した学びを保障されるようになったのであれば、理想的だ。しかし、「充実した学び」に結びつかないのに、授業への出席ばかりが厳しく求められるのであれば、学生の「自由で自発的な学び」は徒(いたずら)に阻害される。虚ろな目で身体だけは教室にいて、レポートは無難に文字を埋める学生の一群を前に、私たち教員は何とかしなければ、と思う。学生は教えたことを機械のように学ぶのではない。自分たちにとって本当に意味のある学びであると感じなければ、学生は本気で学ぶスイッチを入れない。
「本気で学ぶスイッチ」を入れるためには、学びを意味づける土台が必要なのだ。その土台となるのは、学生たちが自分にとってかけがえがないと感じる経験であり、また、大切な他者や自分との出会いだと思う。青年期における「本気の学び」は、自分の生き方の模索と重なりあうことが必要であり、そのためには経験や出会いが不可欠だ。
しかし、現在の学生たちにそれが十分に保障されているとは言い難い。「やらなければならないこと」に時間を占有されてしまい、かけがえのない経験や出会いのために必要な試行錯誤の時間が圧迫されているからだ。ことさら、社会経験が制約されている「コロナ禍」を生きる学生たちは深刻である。教える側にいる私は、授業で知識を提供することはできても、それが学生たちの人生に位置づくような学びになっているという実感を持てないことが多い。
今回は、そのような現実の中でも、大学生活で得たかけがえのない経験や出会いと、授業での学びとが重なり合うことで、人生の宝物を掘り起こしたある卒業生の話をしたい。その話を通して、ダイバーシティ&インクルージョンの時代の学生たちにとって「本気の学び」とは何かということ、その「本気の学び」を社会がどう支えるかということについて考えてみたい。