2015年の発売以降、今でも多くの人に読まれ続けている『ありがとうの神様』。本書は、小林正観さんの40年間に及ぶ研究のなかで、いちばん伝えたかったことをまとめた「ベスト・メッセージ集」だ。あらゆる悩みを解決する「ありがとう」の秘訣が1冊にまとめられていて、読者からの大きな反響を呼んでいる。この連載では、本書のエッセンスの一部をお伝えしていく。

平和な日々は「正義感や使命感」が失われたときにやってくる納得の理由Photo: Adobe Stock

争いごとがなくならないのは、なぜ?

「自分は間違っていない」とか、「自分は正義である」とか、「相手が間違っている」と思ったとき、人は、威張ったり、怒鳴ったり、怒ったりします(「威張る、怒鳴る、怒る」の3つを、私は「い・ど・お」と呼んでいます)。

 多くの人は、「人間は、正義感や使命感を持つべきである」と考えていますが、私はそうは思いません。むしろ、その逆。

 人間の心の中から、正義感や使命感がなくなったとしたら、どれほど平和な日々が待ち受けているかわかりません。

 ある人は言いました。

「この世のすべての人が『自分は間違っている』と思ったら、戦争は起きないだろう。この世のすべての人が『自分は正しい』と思ったら、争い事ばかりだ。戦争はなくならないだろう」

 私も、そう思います。「自分は正しい」と思っていれば、必ずそこに、怒りや憎しみや、攻撃の心が湧いてきます。

正義感・使命感がなくなったらどうなるか

 一方で、「自分は間違っているかもしれない」と思っていれば、怒りや憎しみや攻撃的な心は湧いてきません。

 そう考えると、怒りや憎しみの源泉は、正義感や使命感に立脚している可能性が高い。

 もし、人間の心の中から正義感がなくなれば、「なぜ、そういうことをするのだ」と、他人を指さして糾弾することはなくなるでしょう。

 そして、人間の心の中から使命感がなくなれば、「なぜ、そういうふうにしないのか」と、「しないこと」をなじることもなくなるでしょう。

 自分が自分を律するために、正義感や使命感を持つのはかまわないと思います。しかし、自分に対する律し方を他人にも押しつける必要はない。

 それをするから、相手の心の中に、憎しみや怒りが湧いてくるのです。

「感(カン)は、振り回さずにゴミ箱へ」

 そもそも、「正義」や「使命」は「神の領域」にあると思います。しかし、「感」という漢字が付いて「正義感」「使命感」になったとき、相手を憎しみ、恨み、怒り、軽蔑するような「人間の心の動き」につながっていくのです。

 正義や使命を持つのも、正義や使命を感じるのもよい。ですが、それを他人に対して振り回してしまうと、まわりはとてもつらい状態になり、心地の悪い思いをします。

「感」を振り回すと、まわりの人を傷つけます。「感(カン)は、振り回さずにゴミ箱へ」。これは、私がいつも笑いながら言っている言葉です。

 私たちは、自分の怒りや憎しみは「正当である」と思い、相手の怒りや憎しみは「間違っている」と思いがちです。

 しかし、自分が間違っていると思いながら争いを起こす人は、世の中にはいません。「私は全部正しい」と思う心が争いを引き起こしているのです。

 どんなときでも、怒らないこと。どんなときでも、相手を憎まないこと。「もしかしたら、私が間違っているのではないだろうか」と思い続けることが、「謙虚」ということではないでしょうか。

 謙虚さとは、自分がどう生きるかを、自分に課して生きていくことです。自分の価値観を他人に押しつけたときに、まわりのものが見えなくなる気がします。