山形新幹線を早期実現した
山之内秀一郎氏の逆転の発想

 だが、JR東日本で副社長・会長を務めた山之内秀一郎氏(2008年逝去)は自著『新幹線がなかったら』の中で、友人と山形の温泉に出かけた際、福島から先、在来線特急が走っていることを誰も知らなかったというエピソードを挙げている。もちろん地元の人は日常的な足として使っていたのだが、他の地域からの認知度は高いとは言い難かった。

 山形新幹線を実現に導いた人物こそが、山之内氏だった。氏は1933年生まれで、戦時中は山形県に疎開していた経験がある。56年に国鉄に入社すると、名古屋鉄道管理局運転部長、本社運転局保安課長、東京北鉄道監理局長などを歴任し、国鉄末期は常務理事として国鉄分割民営化を推進した。民営化後はJR東日本で副社長、会長を務めた。

 前掲書によれば山之内氏が山形新幹線を着想したのは国鉄時代、83年のことだった。この年、開通後初めて冬のシーズンを迎えた上越新幹線にはスキー客が殺到した。日曜日の夕方、越後湯沢を発車する新幹線車両は混雑のために扉が閉まらず、乗客の背中を押し込まなければならなかった。スキーが盛んな山形まで東北新幹線が乗り入れれば、多くの乗客を望めるのではないかと考えたのである。

 UIC(国際鉄道連合)への派遣経験がある山之内氏は欧州の鉄道事情にも詳しく、フランスのTGVが専用線を高速運転する一方で、一部の区間では在来線に乗り入れていた事例がヒントになったという(フランスは在来線もTGVも同じ線路の幅)。

 しかし、大きな問題があった。新幹線の建設計画は全国新幹線鉄道整備法に基づき進められることになっており、当時凍結中ではあったが5路線の「整備新幹線」計画が存在した。福島~山形間が同法の定める新幹線と位置付けられたら、これらの計画を飛び越えて着工することは認められない。5路線の完成を待っていたら、半世紀以上はかかるだろう。

 そこで、前述の新幹線の定義を逆手に取った。在来線を改軌して東北新幹線から新幹線車両を乗り入れさせたとしても、時速200キロ以上の高速走行をしない福島~山形間は新幹線とは扱われない。山形新幹線は在来線の改良事業であると位置づけたのである。そしてこれを実現へと導いたのが1992年の開催が決まっていた第47回国民体育大会「べにばな国体」だった。

 当時、自民党で交通部会長を務めていた鹿野道彦衆議院議員(2021年逝去)は、国体にあわせて山形~東京間で、新幹線車両で乗り換えなしの直通運転を開始する構想を提案。1988年8月に着工し、92年7月1日に開業した。鹿野氏にミニ新幹線構想を披露したのは山之内氏といわれている。

 山之内氏の狙い通り、各駅の電光掲示板に列車名「つばさ」、行先「山形」の文字が表示されたことで、山形に直通する「つばさ」という列車の認知度はみるみる上がっていった。山形新幹線は予想以上の好スタートを切り、開業3年後の95年には6両から7両編成に増強している。

 99年に山形~新庄間が延伸開業。2008年から11年にかけて開業時から使用していた400系車両をE3系車両に置き換え、12年には東北新幹線内の最高速度を時速240キロから時速275キロにスピードアップした。