3作続くドキュメンタリー映画ならではの“時間の流れ” 

 アメリカで知り合った帰還兵の子どもたち、ベトナムでの度重ねての取材……坂田さんは戦争被害者たちに寄り添うようにカメラを向け、“その人の、いま、その時”を記録している。1作目『花はどこへいった』に映し出された人たちが、3作目『失われた時の中で』に再び登場する姿に、ドキュメンタリー映画ならではの“時間の流れ”の重みを感じる。

坂田 長い年月のうちに、被害者の人たちも変わったし、私も変わりました。2004年に、平和村*2 に最初に行ったときは、被害者の様子に目を覆いたくなることもありました。当時は、障がいのある人たちは私とは違う世界の人たちで、コミュニケーションが取れないのではと思っていましたけれども、何度も訪ねているうちに、垣根がなくなってきました。たしかに、障がいが重い人たちとは理解し合えないこともあるかもしれませんが、たとえば、『花はどこへいった』に緊張した面持ちで出てくれたホアンさんやロイさんは、『失われた時の中で』では、私との垣根がほとんどなくなり、カメラの前でもリラックスしています。

*2 ホーチミン市にあるツーヅー病院(産婦人科病院)の一角にあり、枯葉剤の被害を受けた子どもたちの支援とリハビリを行っている。

“ベトナム戦争の枯葉剤被害者を映したドキュメンタリー映画”と聞いて、シリアスで重いイメージを連想する人も多いだろう。たしかに、目を背けたくなる現実を、『失われた時の中で』で私たちは目のあたりにする。「(親の自分が)死んだ後のことは考えないようにしている。考えるのも恐ろしい」と、重度障がいの我が子の行く末を案じる母親。親族に介抱されながらも若くして亡くなってしまった青年。一方で、明るく前向きに生きる被害者たちの姿もカメラはとらえ、さまざまな被害者がそれぞれの人生を歩んでいることを映画は伝えていく。

坂田 2004年にフォン先生*3 をインタビューしたときに、先生が、「平和村にいる子たちは、自分の将来を自分で心配することがなくて、とても明るい。でも、私は本当に心配している」とおっしゃいました。「この子たちはどうなっていくのだろう」と、私も思いました。そして、明るさや元気さは、病院の先生や看護師さんや周りの人たちの支えがあるからだということも分かりました。もちろん、絶望的な状況の人もたくさんいます。障がいのある父と叔父たち4人のケアをする女の子をはじめ、筆舌に尽くし難い苦労をしている家族がいるのです。地方の村々を訪れて、被害者がベトナムのあらゆる場所に存在することも知りました。多くの被害者に20年近くお会いしてきたけれども、私が見聞したのは氷山の一角にすぎません。

*3 グエン・ティ・ゴック・フォン。産婦人科医。ベトナム戦争当時からツーヅー病院で働き、異常な出産や疾病が激増していることに気づいた。最初は原因がわからなかったが、70年代になって原因は米軍が散布した有毒な化学物質であることを知り、枯葉剤の被害者たちを助けるために尽力してきた。病院を退職した現在も、地方の枯葉剤被害者を定期的に訪問し、支援を続けている。(『失われた時の中で』プレスシートより)

 ベトナムのGDP成長率は高い数字を記録し続け、今年(2022年)の第1四半期(1~3月)も前年比プラスだ。ベトナム戦争の終結から長い時間がたち、その経済発展が国民の生活や価値観を変えている。

坂田 ベトナムは経済成長が続いていますけれども、枯葉剤の被害者たちは取り残されています。特に地方の被害者たち。ただ、国全体が発展してきているので、「慈善の心」のあるお金持ちもたくさんいて、被害者支援の場所が各地域に造られています。もちろん、企業のバックアップもあります。そうしたなか、戦争の記憶が薄れつつあるのもたしかです。戦後に生まれた国民も多数を占め、枯葉剤のことを知らない人もいっぱいいます。

 枯葉剤の被害者である子どもたちの支援とリハビリを行う平和村は、ベトナム国内の大きな産婦人科院であるツーヅー病院の一角だ。しかし、病院の拡張工事によって、閉鎖されるという話もある。

坂田 「平和村がなくなったら、子どもたちはどうなるの?」と関係者は心配していますが、フォン先生と被害者の会が「オレンジ村」という新しいコロニーを作って、被害者の救済にあたろうとしています。職業訓練所や有機野菜を育てる農場の設立など……まだお金が足りなくて、具体的には進んでいないみたいですけれども、きっとうまくいくでしょう。ベトナムの人たちは、やると言ったら必ずやりますから。