偶然の出会いと周りのサポートが生んだ映画制作

 2004年に、「初めての映画制作」という姿勢でベトナムを訪れ、枯葉剤の被害者に接した坂田さん。いちばん最初にカメラを回したときに、不安や戸惑いの気持ちはなかったのだろうか。

坂田 戸惑いやためらい以前に、ビデオカメラ自体の細かい扱い方がよく分からず、被写体にパッとカメラを向けて、「どうフォーカスするんだっけ? どう露出を変えるんだっけ?」と。オートに切り替えても、暗い部屋の中では何も見えてこない。映画(『花はどこへいった』)で、お母さんに付き添われて歩行練習する男の子のシーンがありますけれども、目の前で感動的なことが起きているのに、カメラを通じて私が見ているのは真っ暗な世界でした。

“ドキュメンタリー”というジャンルの映像作品は、その多くが、過剰な演出や脚色と無縁だからこそ、ともすれば、平坦で退屈なものになりかねない。しかし、坂田さんの映画は、監督の坂田さん自身が撮影者でもあるので、坂田さんの“被写体を見つめる眼差しと気づき”が、作品の個性となって、鑑賞者を引きつけていく。

坂田 最初は、カメラの向こう側の世界とこちら側の世界の隔たりがありました。でも、いろいろな人にカメラを向けていくなかで、被写体となる人の人間性を見ていけるようになりました。

 たとえば、競争社会で、人は、完璧であることとか、より優秀な存在になることを目指しがちですけれども、「本当にそれでいいの?」という気持ちが私に生まれました。ロイさんの奥さんになった女性は、ロイさんの魅力を感じながらも結婚することに迷いもあったかもしれません。それでも、結婚して幸せに暮らしています。障がいの有無が人間関係の壁にならないことは本当に素晴らしい。ベトちゃんドクちゃん*4 のドクちゃんも結婚して子どもも生まれている。彼ら夫婦には、たくさんの苦労があるかもしれないけれども、それを乗り越えていく強い何かがある。ベトナムでカメラを回し続けて、そうしたことに気づきました。

*4 ベトさんとドクさんは、1981年に癒合体児として誕生し、1986年には日航機で東京の日赤へ緊急搬送されるなど、日本国民にもその存在がよく知られた。1988年に分離手術に成功したものの、2007年にはベトさんが死去した。

 グレッグさんとの死別をきっかけに、坂田さんは枯葉剤についてのあらゆる文献を渉猟し、映画の制作方法を学び、長期間にわたる取材でドキュメンタリー映画を創っていった。「夫の死因の真実を知りたい」という思いが坂田さんを突き動かしたようだが、その行動力と実現力には驚くばかりだ。

坂田 映画を創れたのは、運の良さやたくさんの人の助けがあったからです。夫の遺灰を湖にまくために、私が高校生のときに留学していたメイン州(アメリカ合衆国)に行ったことが最初のきっかけでした。そのときに、映像や写真技術を教えるサマースクールの関係者にたまたま出会い、「ドキュメンタリー映画制作の講座もありますよ」と、パンフレットを見せてもらいました。2週間の講座で、初心者でも大丈夫ということで、「やってみようかな」と。どうなるか分からない、何ができるようになるか分からないなか、最初の授業で、講師が「何を期待して、このコースに来たのですか?」と私たち受講生の一人ひとりに聞きました。「夫を失くし、枯葉剤のドキュメンタリーを作りたいと思って……」と答える私の言葉に耳を傾け、真摯に向き合ってくれた講師――やがて、その人は、『花はどこへいった』の編集も手伝ってくれることになるのですが、そうした偶然の出会いから、私は、映画制作の道を進む勇気や力を得ることができたのです。