サポートを制度的に保障しようとすると……
「『障がい者』などという言葉がないほうが、障がい者差別は起こらない」という主張に出合うこともある。確かに、人と人との線引きを際立たせる言葉がないほうが、人をカテゴリーに分けて判断することも少なくなるはずであり、個人の独自性を尊重する「インクルージョン」の状態に近いだろう。しかし、実際はそう簡単にはいかない。
私の知り合いに鈴木くん(仮名)という発達障がいのある青年がいる。出会ったころ、彼は「俺は障がい者ではない」と強く主張していた。私からみると、彼の行動には発達障がいの特性が明確に表れていて、その特性のために、彼は周囲の人たちとたくさんのトラブルを引き起こしていた。あまりにもトラブルが多くて就職や恋愛や友人関係など、あらゆることがうまくいっていなかった。そのうち、私も彼に障がい者手帳の取得を勧めるようになった。
それでも、しばらくは「俺は障がい者ではない」と言っていたのだが、そのうち、「どうすれば、障がい者手帳をもらえるのか?」と私に質問するようになった。すったもんだの挙句、やがて、鈴木くんは障がい者手帳を取得した。すると、彼は、誰かとトラブルがあると「あいつは障がい者を差別した」と息巻くようになった。
鈴木くんは、「障がい者」という言葉にネガティブなイメージを持っている。だから、自分は「障がい者」の仲間に入りたくないという思いが強かった。「障がい者」としてのアイデンティティや役割を押しつけられることに対して懸命に拒否していた。しかし、実際に日々起こる困難に直面して、社会的なサポートを得る必要が高まってくると、「障がい者」であることを拒否する力が弱まっていった。そして、「障がい者」であることを受け入れると、彼は「障がい者」としてのアイデンティティを拠り所にして生活するようになっていった。
このように、何らかの障がいが原因で他者からのサポートを得る必要が生じたときに、自分が「障がい者」であることを受け入れざるをえなくなることがある。サポートする側からすると、サポートを必要とするのは誰かということを明確にするために、「障がい者」といったカテゴリーが必要となる。
けれども、そのようなカテゴリーによって人を分けなくとも、サポートを必要としている人すべてに、適切なサポートが提供できるなら、そのほうがよい。そうすれば、サポートと引き替えに「障がい者」のアイデンティティと役割を押しつけられるということもなくなる。カテゴリーの枠に押し込まれなくても、誰でも必要なサポートを受けることができる状態こそが「インクルージョン」なのだ。
私の大学にも、障がいのある学生をサポートするための制度がある。この制度のもと、大学と学生の間で「単位を取得するためには、あなたにはサポートが必要だから、そのサポートを保障していきましょう」という取り決めをする。ここで問題になるのが、当該の学生をサポートするかどうか、また、どのようなサポートをするかということだ。それらを誰かが決めなければならない。障がい者手帳を持っていない学生の中にも、大学での十分な学びのためには何らかのサポートが必要だという人は多くいる。そうした学生も含めて、必要に応じてすべての学生をサポートするのが理想だろうが、大学からすれば、「そんなことをしたら、金と人がいくらあっても足りない」となる。そこで、多くの場合、医師による診断書がサポートを決定するための切り札になる。
大学と学生との間のやりとりの渦中に巻き込まれることの多い私は、その度に居心地を悪く感じる。「インクルージョン」をめざしているつもりが、いつのまにか、人と人との間に線引きをする役割を担ってしまっているのではないか。
私の大学において、障がいのある学生をサポートする制度が整っていなかった時代、山本くんの学友たちは、山本くんが障がい者だからサポートしていたのではなく、友だちだからサポートしていた。友だちである限り、サポートは「お互い様」の関係性の中で行われていたはずだ。診断書を根拠にして障がい者に適切なサポートをすることが要求される現在の状況において、そのような関係性は生じえるだろうか。診断書というお墨付きによって人と人との間の線引きが強化されてしまうのを目の当たりにしながら、山本くんと彼の学友たちとの間にあったように、分け隔てない「お互い様」の関係性を育てる働きができているのか――そうした疑問が、私自身に突きつけられているように感じるのだ。