“インクルージョンの本質とは何か?”を考える

 私が神戸大学に赴任してきて、最初に指導させていただいた学生の中に、山本宗平くんという青年がいた。山本くんは全盲で、卒業後は高校の英語教師として働いている。たいへん優秀な学生で、私も含めて、周囲の人たちは彼からたくさんのことを学んだ。学生たちは何かにつけ、山本くんを中心に行動していた。教員の私からみたら、周囲の学生たちは山本くんのサポートをよくしてくれているように思えた。実際、授業のテキストなどの点訳を手伝うなどのサポートを自然にこなしてくれていた。学生たちの間に〈サポートする側〉対〈サポートを受ける側〉という固定的な関係性は感じられなかった。学友どうしとしてお互いにポジティブな影響を与えあっていた。その様子を私が清々しく感じたのは、学生たちの山本くんへのさりげないサポートに気負いを一切感じなかったからだと思う。山本くんが授業で使う資料の点字変換を手伝うことは、山本くんが別の学生の恋愛相談に乗ることと、ほとんど同列のような雰囲気だった。

 サポート側の学生にとって、山本くんは「障がい者」というカテゴリーの中にいたのではなかった。キャンパスの中で、私たちは、「障がい者」と出会ったのではなく、「山本くん」という個性的な人格と出会ったのだ。このようなケースにはその後も幾度か遭遇したが、それほど珍しくない事例であるにもかかわらず、私たちがこの学生どうしの関係性を美しいと感じたり、私が学生たちから学んだと感じたりするのは、私たちがどこかに、山本くんに「障がい者らしく」ふるまうことを求める気持ちを持っていたからなのかもしれない。「障がい者らしく」サポートを受けて感謝の気持ちを表現し、「障がい者」として周囲に教訓を与えるといった役割を、山本くんに期待していたのではないかと、今になって思い返している。

「障がい者」というカテゴリーは、往々にして個人に貼り付けられるレッテルとなり、レッテルを貼られた人は、「障がい者」としてのアイデンティティやふるまいが求められてしまうのである。カテゴリーは、「障がい」の有無だけでなく、年齢・性別・国籍や文化など、さまざまな違いに焦点をあて、人と人との間に線引きし、私たちのアイデンティティやふるまいを決定する力を持つ。「若者らしさ」「男らしさ」「日本人らしさ」……といった言葉があることが、そのことをよく物語っている。カテゴリーが大きいほど、排除(エクスクルージョン)が強まり、「インクルージョン」から遠ざかるのだ。

「インクルージョン」という言葉が示すのは、山本くんが、「障がい者」としてではなく、山本くんらしさを発揮する個人として存在することができる世界である。人と人とを線引きするカテゴリーに沿ったアイデンティティやふるまいを押しつけることなく、個々人が自分らしく生きることができるようにすることが、「インクルージョン」の本質だ。