矛盾の中でも、インクルージョンに一歩ずつ近づくために
性別や国籍、文化の違いや障がいの有無、年齢、学校や会社といった所属先を含め、人をカテゴリーに分けることが求められる場面は日常的にある。しかし、そのカテゴリー分けが、人を隔てる溝、あるいは、人の優劣を定める基準にならないようにしなければならない。まずは、人をカテゴリーに縛りつけず、一人ひとりの人間を大切にするということが、「インクルージョン」――すなわち、「誰も排除されない社会」「一人ひとりが持ち前を発揮して輝く社会」への第一歩だと思う。この姿勢の必要性は、大学であっても企業であっても同じではないだろうか。
大学であれば、学生や教職員の中に、企業であれば、従業員の中に、他の人たちのように力を発揮することができない人もいる。もし、環境を変えることで、その人の力が発揮されるようになるのであれば、可能な限り、大学や企業は環境を変える努力をすべきだ。
その際に重要なポイントとなるのは、「組織が対話的な風土を育てているかどうか」だ。組織の成員がぶつかっている壁の存在を、本人自身が周囲に知らせないと何も始まらないし、組織のほうも成員の訴えに向き合う構えがなければ環境改善の方向には向かわない。また、環境改善は、場合によっては組織成員の間の利害が絡む。たとえば、弱視の学生から授業の資料を拡大コピーしてほしいという要望が上がり、それに対して、授業担当の教員が“業務負担の増加に対する不満を表明する”ということがある。このような利害が絡む対立を対話によって調整して、全体の力を高めることができる状態にしていかなければならない。他者の意見に耳を澄ませ、自らも率直に意見を述べ、相互に納得できる着地点を探す対話が、「インクルージョン」には必須なのだ。
顔の見える範囲で対話ができる小集団では、「インクルージョン」が成り立つことは珍しいことではない。山本くんと彼の学友たちの関係がそうであったように、企業内で障がいのある従業員が同僚たちから自然なサポートを受けながら仕事に取り組んでいる事例も多くあるだろう。まずは、企業内を含め、社会のあちこちで、そのような事例を増やしていくことをめざすべきだ。
しかし、集団が大きくなるほど、「インクルージョン」は難しくなる。大人数になるほど、対話が難しくなるし、利害を調整することも難しくなるからだ。
「インクルージョン」をめざす職場は、たとえば、男性と女性の間の差異を誰もが過剰に意識せずに働くことができるような状態をつくろうとする。小さな組織(集団)の中ではそのような状態になったとしても、企業全体に広げていくのは容易ではない。組織(集団)が大きくなると、対話が成立しにくくなるし、利害の調整も難しくなる。検討すべき事柄も多様で複雑になっていく。中には、家事や子育てや介護などの役割分担について、家族内で折り合いを付けるのが難しい従業員もいるだろう。家族から「女性らしい働き方」を求められている従業員は、職場でも男性・女性の差異を強く意識せざるをえない。また、取引先や顧客から、従業員が「男性らしさ」や「女性らしさ」を求められることもある。大きな組織(集団)になるほど、外部社会からの影響も大きくなる。「インクルージョン」の状態を広げていくほど、一つの集団だけでは完結できなくなり、社会全体の課題となっていくのだ。
また、「インクルージョン」をめざす職場は、たとえば、障がい者もそうでない人も、障がいの有無を必要以上に意識せずに働くことができる状態をつくろうとする。そのような職場を広げるためには、組織全体で働き方や職務分担の見直しを行い、すべての働く人に対する合理的配慮が当たり前になっていることが求められる。大きな組織になるほど、この作業は複雑で大きなエネルギーを必要とする。
大学も企業も、まずは、“小さな集団で一人ひとりの人間を大切にする”ということから出発し、そこで生まれた関係性を拠点にして、対話を大切にしながら、徐々に「インクルージョン」に向けた大きなうねりを創り出していくイメージを持つとよいのではないか。
挿画/ソノダナオミ