突然大雨になり、傘も屋根もなければ「これ以上濡れてはならない」「雨をしのげる場所はないか」と不安でいっぱいになるだろう。それが、「これ以上はいくら濡れても同じというところまでずぶ濡れ」になると、それまでの不安から解き放たれ、はしゃいだり、大笑いしたりしないだろうか。映画にもそんなシーンがある。気を楽にする最強の手段とは、「最後の最後に反転した先の、この楽観をつかむこと」だ。

 真面目な人ほど、苦しさに耐えて克服を目指そうとする。悪いことではないが、どうにもならないことはいくらでもある。そんな時に頼れるもうひとつの道が、「克服をあきらめること」だ。問題はそのままだが、そこには、「ずぶ濡れになった人が持つ、ある種の強さ」がある。「もう失うものは何もない」と、最後の最後に見切った人は強い。

◇「誰がどうした」ばかり考えすぎない

 あなたはSNSを毎日何時間も見て、特定の誰かがどう振る舞ったかということばかりに目を向けてはいないだろうか。これは人間の習性でもあるが、SNSができる前は、それを知らなくても特に困らなかった。「誰がどうした」という話は、「誰かをうらやましがったり、逆に見下したりする心理につながりやすい」。ここから劣等感や嫌悪感が生まれる。

 合わせ鏡と同じように、SNSには、「見尽くすことができない無限の広がり」がある。覗くのをやめさえすれば、その世界は消え失せる。

「人間のことを考えすぎて気が重くなった時の対策のひとつ」として、著者はよく「海に降る雪」を思い浮かべる。そして「それにつけても海に振る雪」と、短歌の下の句のような形にして、様々な文に続けてみる。「SNSでは今日も大騒ぎが起きている。―それにつけても海に振る雪」といった具合だ。

「海に振る雪」の世界は、「人間どころか生き物すらいない」世界だ。人間がそうした世界を知らないだけでなく、その世界の側もまた「人間に知ってもらおうと思っていない」。地球上はそんなところばかりだったはずなのだ。

 私たちの視界は、いつも誰かの話題でいっぱいだ。その中で大きく見えるものは、とても重大であるかのように思えてくる。「誰がどうした」といった話題には、奇妙な依存性がある。だから、「少し頑張ってそこから離れるようにしているくらいがちょうどいい」。