仏教用語である「意地」と「後生」
文化時報社による「文化時報賞」は、島根県松江市の臨済宗妙心寺派円成寺の「意地の上にも三年」です。
「石の上にも三年」ということわざはみなさんもご存じだと思います。「冷たい石の上でも、三年もすわり続けていれば石が温まってくるように、最初は辛くとも、三年辛抱すれば報われる」ということです。しかし、この掲示板の言葉は「意地の上にも三年」。文化時報社による講評は以下のとおりです。
張ったり貫いたりする「意地」は元々仏教用語で、本来は意識や心という意味だそうです。だとすると、「意地の上にも一生」の方がよりふさわしいのでしょうが…、そう書くわけにもいきませんよね。
この講評にあるように、仏教での「意地」とは、人間の五官の認識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)の次の第六意識(心)を指します。それは、この世界のさまざまなものを生み出し、成り立たせる可能性を持っているため、自分の意地(心)をしっかり見つめることが仏教では大切なことなのです。
意地の上にも三年。自分の心の中の意識もじっと三年くらい凝視していると、何か見えてくるものがあるかもしれませんね。
続いて、(一社)全国寺社観光協会が発行している寺社に関する情報誌『寺社NOW』を冠した「寺社NOW賞」は、「おばあちゃんは、(おじいちゃんは)なにになりたいの?」(小学1年生からの問い)です。講評は以下の通りです。
不意を突いた無邪気な子どもの問いに、まさか「骨になりたい」とか「風になりたい」などと誤魔化すわけにもいきません。さて何と答えたものか、思わず山門をくぐってお坊さんとお話をしてみたくなります。お寺の掲示板は、お寺と地域の会話を促すコミュニケーションの装置でもあったんですね!
お年寄りの方で「自分は、あとは死ぬだけ」とおっしゃる方がいますが、死んですべてが終わるわけではありません。一般的に死んだ後を「後生(ごしょう)」と呼び、特に浄土真宗では「後生」が重要となってきます。みなさんは死後のことを真剣に考えたことがありますか? 死んだらすべて終わりと考えるのではなく、自身の死の先のことも意識しながら、生活を送ってみてはいかがでしょうか?