人生100年時代
「四十、五十は洟垂れ(はなたれ)小僧
六十、七十は働き盛り
九十になって迎えが来たら
百まで待てと追い返せ 渋沢栄一」
現在は「人生100年時代」といわれています。年金の支給年齢繰り下げが検討されているためか、勤労者の定年も65歳、70歳と延長されていきそうです。
ところが日本の仏教界では、60代、70代がむしろ働き盛り。わたしも「不惑」を過ぎた40代ですが、定年のないお坊さん業界では本当にまだまだ洟垂れ小僧の域です。この標語も「そのとおり」と実感を持って受け止めました。
1840年生まれで、「日本資本主義の父」
『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経の中に、棄老国(きろうこく)という高齢者を棄てる風習のある国のエピソードが出てきます。
ある時、棄老国の王が天神に、「2匹の蛇の雌雄を見分けられなければ国を滅ぼす」という難題を突き付けられました。この時、大臣がこっそり隠して養っていた老父が、それまでに蓄えた知識を存分に発揮して国を救ったため、棄老の風習は禁止されたという内容です。
姥捨ての説話は世界のどこにでもあるようですが、『雑宝蔵経』では人生の経験を重ねた高齢者は多くの知恵を持っているという敬老の説話になっています。
白髪の頭になったから、長老なのではない。
ところで、『法句経(ほっくきょう)』というお経の中には、こんな言葉があります。
頭髪が白くなったからとて長老なのではない。
ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。
誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷(そこ)なわず、
つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、
気をつけている人こそ長老と呼ばれる。
中村元訳『ブッダ 真理のことば 感興のことば』(岩波書店)
なかなか厳しい言葉ですね。あと5年もすれば、日本人の3人に1人が65歳以上という超・高齢者社会が現実のものとなります。「老いる」という概念にも修正が必要となりそうで、「棄老」ならぬ「活老」の時代になるのかもしれません。
最近、暴走気味の高齢者の話題を耳にしますが、「空しく老いぼれた人」と言われないような齢の重ね方をしたいものです。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)