その賤ヶ岳の戦いで勝家が本陣にしたのが、福井県と滋賀県の県境にある標高460メートルの内中尾山に築いた玄蕃尾城だった。現在は県道140号線の柳ヶ瀬トンネル脇の敦賀市側に小さな駐車場があって、そこから見学路をたどって訪ねられる。

 玄蕃尾城の本丸北東隅には天守に相当した櫓台があり、櫓台上には礎石が残る。本格的な建物があった証拠である。さらに曲輪の周囲に沿ってめぐらした堀「横堀」や、堀の対岸に出撃用の陣地を突出させた「馬出し」も観察される。玄蕃尾城は石垣をもたないが、本丸を頂点にみごとな求心構造を実現した当時最高水準の城だった。

写真:玄蕃尾城本丸の土塁と横堀玄蕃尾城本丸の土塁と横堀。奥に見えるのが天守相当の櫓台 Photo by Yoshihiro Senda

 さらに玄蕃尾城の本格的なつくりからは、勝家が清須会議後の早い時期に玄蕃尾城の築城に着手して、畿内進出の軍事拠点を整備したのが見えてくる。文字の記録にはないが、勝家の玄蕃尾城築城の報は秀吉の耳にすぐ入っただろう。勝家がその気なら、こちらはその先手をとって、というのが秀吉の心境だったに違いない。つまり賤ヶ岳の戦いの引き金を引いたのは、玄蕃尾城だったのではないだろうか。