260年難攻不落だった江戸城、無血開城の裏にあった「苦しい事情」Photo by Ryo Kuroda

「城は攻められたら終わり」の発想で、優れた多重防衛システムを築き上げた江戸城。今回は、その城郭としての強みについて見ていこう。一方で、鉄壁の守りを固めていたはずの江戸城は、なぜいとも簡単に降伏したのか。その背景についてもひもといてみたい。(作家 黒田 涼)

鉄壁の防衛システムを築いた江戸城
城郭としての恐ろしさとは?

 これまで2回にわたって、異次元の発想で将軍を守ろうとした江戸城とその防衛システムについて紹介してきた。それは関東平野全域を視野に入れた、近代戦にも通じる戦線構築の思想と、各地に置いた支城というにはあまりに巨大な家臣の居城群、そして江戸周辺の河川を生かし、防衛視点で構築した都市構造などからなる重層的なものだった。
※3月12日配信『徳川家康が難攻不落の江戸城を築いた「逆転の発想」 、マッカーサーとの共通点も』、5月8日配信『江戸城が天守を失っても200年攻められなかったワケ、驚異の防衛システムのすごみ』

「城は攻められたら終わり」との考えのもと、敵が城を見る前に殲滅(せんめつ)するという多重防御の恐ろしさがお分かりいただけたと思う。しかし徳川家康や、その教えを引き継いだ将軍たちは城郭自体の構築を手抜きしたわけではない。現代も昔も、やはり目に見える「城郭」は多くの人に分かりやすい畏怖感を与える。

 いわゆる城郭としての江戸城は天下無比の巨大城郭であり、この城だけは決して落とせないのではないかと思わせるに十分なものだった。今回はその城郭としての江戸城の恐ろしさをご紹介する。

 しかしその江戸城も、家康の入城から278年後、新政府軍に戦わずして明け渡されてしまった。これほどまで強調してきた「難攻不落」の城が、なぜいとも簡単に降伏したのか。その秘密も明らかにしたい。