写真:前田利家像前田利家像 Photo:PIXTA

いま一大ブームとなった城歩き。全国にある中世・近世の城跡は3万カ所に及び、各地の城を訪れる老若男女が増えている。文献だけでなく、近年研究が進む城郭考古学の成果で、武将の考え方もわかるという。国内外の城を城郭考古学の立場から研究する千田嘉博教授(奈良大学文学部)の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から一部抜粋し、歴史の大舞台となった城跡を訪ね、武将らの心を推し量ってみよう。(城郭考古学者 千田嘉博)

【玄蕃尾城】
玄蕃尾築城が激突の引き金に

 1582(天正10)年に起きた本能寺の変で、織田信長・信忠親子が自害し、明智光秀が山崎の戦い後に討たれると、新たな天下人の座を争う戦いがはじまった。関係者が集まった「清須会議」で、表向きは信忠の子の三法師(のちの織田秀信)を立てて仲良くすると決めたのだが、戦いのカウントダウンは止まらなかった。

「清須会議」でうまく立ち回ったのは羽柴秀吉とされるが、北の庄城(福井県福井市)を居城にした柴田勝家も着実な布石を打っていた。勝家は、信長の妹お市の方を妻にして後継者としての正統性を補強し、福井から京都を目指す途中に位置する長浜城(滋賀県長浜市)を手に入れて、畿内進出の橋頭堡を確保した。

 それに対して秀吉は、信長の葬儀を京都の大徳寺で強行し、勝家が雪によって動けないのを見越して長浜城を攻めて奪還。勝家に味方した武将たちを各個撃破する軍事作戦を展開した。この状況に勝家は春を待ちかねて出陣。秀吉は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)一帯に砦を築き、北国街道を封鎖して勝家の南下を阻止した。これが1583(天正11)年に勝家と秀吉が激突した賤ヶ岳の戦いだった。