世界遺産「古都京都の文化財」の構成遺産の一つとして見学者が絶えない二条城。ここにはたびたび城が築かれてきた。信長の武家御城しかり、家康の二条城しかりである。近年の城郭考古学の成果から諸史料を見直すと、それぞれの違いが浮かび上がってくるという。国内外の城を城郭考古学の立場から研究する千田嘉博教授(奈良大学文学部)の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から一部抜粋し、信長、家康がどのような二条城を築いたかを見ていこう。(城郭考古学者 千田嘉博)
信長築城の武家御城
側面防御の張り出し
二条城といえば、書院建築の代表的な建物のひとつである。城内に残る二の丸御殿は国宝に指定され、この二条城は1602(慶長7)年から徳川家康が工事をはじめ、1626(寛永3)年の後水尾天皇の行幸に合わせて徳川秀忠・家光がいまの姿に改修した城だが、実はこの前にいくつもの二条城があった。
最初の二条城は1569(永禄12)年に織田信長が将軍足利義昭のために築いた「武家御城」だった。この城は現在の京都御苑の南西部分から烏丸通を越えて西へ広がり、一辺およそ400メートルの規模だった。京都市営地下鉄烏丸線敷設の事前発掘で石垣や堀を発見し、その後も周辺の開発に伴って関連した堀などを発見している。