【別所山砦】
前田利家の戦線離脱の理由
1583(天正11)年3月、柴田勝家は南下を開始し、福井県と滋賀県の県境に到達した。勝家は玄蕃尾城を後方の拠点とし、南の山稜上に砦群を構築して布陣した。それに対し羽柴秀吉は、余呉湖北側の山稜上に砦を築き、北国街道が通る谷筋が最も狭くなった地点に防塁を築いて街道を封鎖した。さらに秀吉軍はその後方にも砦を配置して、勝家軍の進攻に備えた。
1カ月ほどのにらみ合いがつづいた後、秀吉が岐阜城攻めのために主力軍を前線から引き抜いたのを見て、勝家軍は怒濤の進撃を開始した。夜間に尾根をたどって秀吉軍の前線砦群を迂回して余呉湖畔に達し、山を登って秀吉軍中備えの大岩山砦を急襲した。敵の中央を突くハイリスク・ハイリターンの戦法「中入り」だった。大岩山砦の周囲には秀吉軍の岩崎山砦や賤ヶ岳砦があったが大岩山砦を助けず、ついに落城した。秀吉軍は一枚岩ではなかった。
「勝家動く」の報に接した秀吉は一気に戻り、退却する勝家軍を追撃した。このとき勝家に従っていた前田利家は、当初布陣した別所山砦を出て、秀吉軍の前線の砦を抑えた茂山砦に進出していた。勝家軍の先備えは利家の砦の方へ粛々と撤退しつつあり、勝家軍はここまで負けていなかった。ところがまさにそのとき、利家が砦を放棄して突如戦場から離脱した。撤退中の勝家軍の先備えからは後方の自軍が崩れたと見え、勝家軍後方の部隊からは前線が崩れたと見えた。これを転機に勝家は大敗した。
利家が当初布陣した別所山砦は、尾根筋に堀切りを設け、本丸には櫓台と低い土塁を備えた。しかし、別所山砦をはじめ勝家軍が築いた砦群は、玄蕃尾城を除いて簡素なつくりで、仮の陣地の性格が強かった。砦の構えを分析すると、勝家が賤ヶ岳北側の山中に長期間足止めされると想定していなかったと判明する。一枚岩ではなかった秀吉軍が先に崩れて、勝家が勝つ可能性も大いにあった。
現地に立つとわかるが、別所山砦も茂山砦も前線への眺望が抜群によかった。勝者になるべきは勝家か秀吉か、利家のいた場所がその選択に大きな影響を与えたと思う。戦いを俯瞰していた利家の目に映ったのは、次の時代の姿だったに違いない。